心を込めて、一言

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 少しの残業を強いられて、愚痴を一つ置き土産にわたしは会社を後にする。  夜の七時半。二十九歳のこの身には、二十代前半なら耐えられたはずの寒風がしみる。  今夜、ムダに尖った三日月を見ても、子供のころみたいにそこに腰かけたいなんて思わないし、例えそれが満月だろうが、死んでもいいなんて言葉は吐くこともない。そもそも月が綺麗なんて口にする男がいたら、力の限り頭をひっぱたいて色とりどりの星を舞わせてやりたいくらいだ。  それにしても、さっきから冷たい空気が断りもなく肺を埋めて、そのせいで頭が変にトリップでもしたのか、いや、そのせいに決まってるんだけれども、夏に別れた男のことなんて思いだす始末。真夏に毛皮を羽織ったようなセンスのない戯れ言にあきれて、別れ話を始めたなら、お会計もしないで飛び出しちゃって。男の顔なんて移ろって薄れていくだろうけれど、あの時払った八千四百五十二円はこれからも忘れないだろう。  それにしてもこんなに寒いなら、センスのない毛皮でもいいから欲しいくらいだ。本当は安くても暖かいダウンジャケットが欲しいけれど、きっと、こんなわたしには誰も着せてはくれないだろう。  横風が強くなってきた。そういえば、いつの間にか遮るビルもなくなってしまった。分かりきった道なのに、今夜はなんか覚悟が足りない。  はあ、またいつもの橋を渡らなきゃ。たかだか三百メートルちょっとなのに、なんでこんなに夜は長いんだろう。いや、橋のせいじゃないな。川のせいだ。流れるのはかまわないけれど、渡るって結構な負荷だ。まるで今日の会議で何一つ噛み合わなかったあの上司のようだ。そもそも、あの漂ってくる整髪料はなんだ? 脂ぎった髪と化学反応起こして、いや、もはやビックバーンか。宇宙は広がってもかまわないけれど、あの上司の頭の上にはブラックホールが必要だ。そうだ、総務にお願いしよう。経費で買ってもらわなきゃ。
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