大嵐

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大嵐

ほとんど狂気に満ちた体育祭の準備と本番が終わり、那須野が原の空は青く澄み秋の涼しい空気と入れ替わっていくはずだった。しかし今年は暑さがいっこうに衰えない。九月末だというのに蝉が鳴いている。 蒸し暑さも健在で、おかげで体育祭では貧血や軽い熱中症で倒れる生徒が多かった。 黄昏時に西郷神社を通りかかった舞は、杉の木に背中を預けて立つ佐飛丸の姿を見つけた。 腕を組んで、空を見ている。というよりも睨んでいる。 空は一面、紅紫色に染まっていた。夕焼けの緋色がかった色とはまた違う、紫に近い色だ。 舞は自転車のスタンドを立て、佐飛丸に走り寄った。 「ひさしぶり」 テンションの高い舞の声に、少し驚いた佐飛丸が腕を組んだまま振り向いた。 「おう、おまえか」 「どうしたの、今日は。ひょっとして寄り合いってやつ?」 「そうだ。今日は臨時の寄り合いだ」 「臨時の?」 「空を見ろよ。妙な色だろう。この色は南の海の神々が、大きな風に乗って攻めて来やがる狼煙みたいなものなんだ」 「大きな風って、台風の事かな?」 「奴らが来ると、ここいらの土地も荒らされるんだ。名のある大和(やまと)の神々が風の向きを変えようと頑張ったんだがやはり駄目だった。ここ何年か、南の海の荒神(あらがみ)の力が嫌に増してやがってな」 「佐飛丸も何かするの?」 「おれ達はただ耐えるだけさ。よその荒神の力を受けると俺たちも荒神(あらがみ)になっちまうからな」 「耐える?妖怪も耐えるの?」 「妖怪?おれの事か?あはははは。まあ、お前たちからみたらそういうものかもな」 「佐飛丸は妖怪じゃないの?」 「おれ達はマモリだ。まあ、そんなことはどうでもいい。いいか、四日後に大きな風が吹く。那須野が原にもここ百年無かったような雨が降る。雨が降り始めたら高台に逃げるんだぞ。お前は―――」 そこまで言って、佐飛丸はふと言葉を切った。 びゅう、と風が吹き佐飛丸の姿は消えた。 「ちょっと、佐飛丸?」 杉の葉が風に泳ぐザザザという音のみが残り、佐飛丸の姿はどこにもなかった。 舞は西郷神社の近くにある書店に寄り、古典SFの単行本を探そうと店内を歩いていると、ヲタク情報誌のコーナーで中原由美子を見かけた。 いつものように明るい由美子と本のことについて話したあと、つい先ほど西郷神社で妖怪と会ったのだというと、由美子が心配そうな顔で話し始めた。 「あの、舞ちゃん。たぶん私の気のせいだと思うですが――」 中原由美子の話の内容によると、いろいろ調べた結果、普段見えないはずの妖怪が急に見えだしたりするのは、魂が不安定だからだというのだ。うっかりすると向こう側の世界に連れていかれるかもしれないので、気を付けて欲しいと。 そして、手相を見せてというので左手を出すと、じっとその掌を見つめて、 「水難の相が出ているわ。舞ちゃんほんとに気を付けてね。暫くは川とか海に近づかないで」 と今にも泣きそうな顔で言うと、両手を伸ばしハグをしてきた。 大柄な由美子にハグされて、どうしていいかわからない舞は、ふうとため息をついて店内を見渡すと、ウインドウガラスに映った自分たちの姿を見つけた。 そして由美子の背中をぽんぽんと叩いた。 四日後、佐飛丸の予言通り台風が関東地方に接近した。 気象庁の予報では、観測史上最大といわれる規模と勢力を保ったまま上陸する可能性が高くなったとのことだ。しかも伊豆半島を掠め神奈川南部に上陸し、茨城県を通過し東北に抜けるという最悪のコースをとることは確実である。 那須野が原も、朝方降り始めた雨は次第に勢いを増し、夕方には既に観測史上最高の雨量を記録していた。 台風は次第に接近し、ごうごうと那須野が原にささやかに生きるすべての命を蹂躙すべく風が吹きすさぶ。 西郷神社の石で作られたお社の周りに、四人が座禅を組んでいる。 佐飛丸、ホーキ丸、ナカの婆様、キヌの大婆様だ。 お社の中には青白い炎がともっていた。信じられないほどの大雨が降っているのに、雨ざらしのお社に灯った炎は消えない。 四人の周りを、大人の手のひらほどの大きさの牛や馬の頭をした小人が、輪をなして取り囲んでいた。小さな松明をもって奇妙な舞を踊り、口々に妙な呪文を唱えながら四人の周囲をぐるぐると回っている。 お社を囲む四人、佐飛丸、ホーキ丸、ナカの婆様、キヌの大婆様はそれぞれ苦悶の表情を浮かべていた。 突然、ホーキ丸の体がボコボコと膨らみ始めた。 口、鼻、目、耳から、どっと水が流れ出してくる。 「いかん、ホーキ丸が荒神になってしまう」 ホーキ丸の異状を止めようとして差し出したナカの婆様の枯れ枝のような腕にいくつもの瘤ができ、膨れ上がった。 「ぐ、」とナカの婆様が呻く。 「ナカ、動くでない。下手をするとお前も荒神になってしまうぞ」 座したまま、キヌの大婆様が一喝した。 「ホーキ丸はホーキ丸自身で耐えるしか仕方がない。我らが正気を保つことが先じゃ」 突然、佐飛丸が座禅をといて立ち上がった。 「ホーキ丸の近くにはアイツがいる」 「佐飛丸、それは最初から解かっていたことぞ。あの娘がこの秋のうちに贄となろうことは、わかっていたことぞ」 キヌの大婆様がまた怒鳴る。 「おれは、あいつを―――」 佐飛丸は、キヌの大婆様に一瞥すると、ホーキ丸の口から出てくる水の中に飛び込んだ。 暗くなってからの避難は危険だ。 洪水となれば尚更である。 外が明るいとしても、洪水によって辺り一面が水に覆われると、何処までが道路で、どこからが水路で、どこからが農地や宅地であるかということが分かりにくくなる。 道路の横には水路がある。溢れかえる水で、水路の蓋が流されて、口を開けている場合が多い。 道路の脇に寄ったつもりが水路に落ち、そのまま流されてしまうことも考えられる。 外が暗くなってからは、二階がある家ならば垂直避難、即ち二階に避難したほうが良い。 しかし、いかにしっかり者の舞といえど、まだ中学生である。 夕方から繰り返される大雨のニュースと、屋根をたたく豪雨の音に不安を募らせた。 タイミング悪く、貴子から、職場から帰れなくなったという電話が来た。 その家は箒川に近いから、少し高台にある祖父の家に避難して、という。 小さなバッグに大切なものをいくつか入れ、肩から斜めにかける。 その上からレインコートを着て、雨靴を履き懐中電灯を右手に玄関を開けると、スマホがけたたましく音をたてた。舞はいったんレインコートのボタンをはずし、バックからスマホを取り出した。音はこの地域に出た避難指示を知らせる警報だった。 この段階で、道路に十センチほど水が溜まっていた。 舞は息苦しいほどの雨の中、祖父の家に向かった。 道が川になっていた。 大きな雨粒が、道路に上にたまっている水面に落ち、飛沫(しぶき)をあげている。 その飛沫(しぶき)が霞のように舞の視界を遮っていた。 雷鳴が轟くたびに身を(すく)めながら歩く。 祖父の家に向かえば、水深は浅くなるはずだと思っていたが、逆に深くなっていった。 どのくらい歩いただろうか、いつの間にか、膝丈までの深さになった。 舞は祖父の家に行くことを諦め、自宅に戻ることにした。 向きを変えると水の流れが舞の足を止める。 何かが足に当たった。流れてきた木材だろう。舞は痛みとともにそれに足をすくわれた。 水の中に倒れ腰まで水に浸かると、ゆっくりだが大きな水の流れに押され、自分が流されていることに気が付いた。何メートルか流されて、ようやく電柱につかまって止まった。 母に助けを乞おうと、バッグの中のスマホを取り出そうとしたが、濡れた手で滑り濁った水の中に落ちる。 絶望が暗い空とともに舞の上にのしかかった。 水の流れは深く早くなり、電柱をつかむ手も(しび)れてきた。 私はここで死ぬんだ――― いやだ。こんなところで死にたくない―― お母さん、助けて―― 私が死んだら、お母さんが悲しむだろう――― お母さんと小原さん仲良く暮らしてね――― 水に体温を奪われ、思考する力をも奪われ、舞の意思は散文的に複数の異なる方向へ伸び、そして潰えようとしていた。 電柱を掴む手から力が抜け、水の中へ沈んだ。 (つい)えようとしている意識の中、佐飛丸の顔が浮かんだ。
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