出逢い

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出逢い

「ねえ、お母さん、私たち本当にここに住むの?」 舞は白いマスクをしたまま、片手に黒く汚れた雑巾の端っこをつまんで立っている。 築四十年はゆうに超える家の中、畳にはうっすら埃が積もっていた。 キッチンの床はフローリングではなく「板張」で、貴子が拭いた雑巾の面積だけ、スリガラスを通した外の光を反射した。 引っ越しセンターが運び込み、積まれた白い段ボールだけが明るい色を放っている。 「この家はね、お母さんが昔お世話になった方から特別に貸してもらったの。とても立派なお家でしょう?」 床を拭く手を止めて諭すように貴子が言った。 「立派だけど、私はもうちょっと新しい家がよかったなぁ」 「文句言わない」 不貞腐(ふてくさ)れる舞の言葉を貴子が一蹴(いっしゅう)する。 舞は渋々作業を再開した。 二人が雑巾を数回洗っただけで、バケツの中の水は墨汁を垂らしたように黒くなった。 キッチンには大きなテーブルがあり、立派な椅子もあった。 家具店に買いに行けばそれなりの値段はするであろう、凝った飾り彫りが施してある椅子と、分厚い一枚板のテーブルはどちらも年代物で燻されたように黒かった。 「あたしこのテーブルと椅子、なんかヤダ」 其々がなかなかに高価なものであることが伺えるが、舞にはそのような価値は理解できず、ただ古いという事しかわからない。 貴子は舞の尖った口から出るボヤキを他所に、スリッパを脱ぐと椅子に乗って天井から下がる四角い和風の蛍光灯の囲いを拭いた。 「あれ?紐が無い。舞、壁のスイッチ押して。蛍光灯のスイッチ」 「どこ?」 「食器棚の横よ」 「あ、あった!」 舞が壁に見つけた象牙色(ぞうげいろ)のスイッチを押すと蛍光灯が点き、思いがけず部屋の中が明るくなった。しらずしらずのうちに暗くなっていた部屋の中にポッと音がしたように明かりが灯る。 舞も自分の気持ちが明るくなったような気がした。 「さて、拭き掃除はこのくらいにして、段ボールの中のものを二階の舞の部屋に運んだら、ご飯食べよっか」 「うん賛成。お腹減ったよう。でもまだお皿とかお鍋とか出してないよ」 「さっき、ここに着く前にコンビニでお弁当買ったでしょう?」 「そうだった!」 舞はテーブルの端に乗せたままになっていたお弁当を横目で確認した。 「あれ?舞、あなたお気に入りの首飾りはもう外したの?今日出発するときにはつけていたよね?」 母の言葉の意味を飲み込むのに数秒かかったあと、舞は素っ頓狂な声を上げた。 「あ!無い!!首飾りがない!」 お気に入りの首飾りとは、舞がまだ小さい頃、父と一緒に行ったデパートで買ってもらった舞の宝物なのだ。 ドタドタと自分に割り当てられた二階の部屋へ階段を上った後、また直ぐに階段を駆け下りてきて、ひとしきり家の中を探し回った舞は半ベソをかいていた。 はっと思いついて、母から車の鍵を貸りドアを開けて車の中を探し回ったが、やはり首飾りを見つけることができなかった。 (きっと、川に帽子を拾いに行ったときに落としたんだ) 今から取りに行きたいが、辺りは薄暗くなっていた。 「お母さん――」 舞は掃除を続ける貴子の服をつまんで引っ張る。引っ張り方と舞の表情から我が娘の言いたいことが痛いほどわかる貴子だったが、 「大切な首飾りだということはわかるけど、だめよ。もう暗くなるから探しに行ったら危ないし。今日は諦めて明日の朝早くに行きましょう」 と(たしな)めた。 「だって―――」 舞は半べその顔がさらに崩壊しそうになり、大きな目に涙をいっぱいに溜めて鼻を鳴らした。 母の言うことはまさに正論だ。 しかし、ただ正論では舞の心のさざ波を収めることは出来なかった。 舞は板張りの廊下を駆けた勢いで裸足のままタイル張りの土間に降り、靴に足を入れるなり玄関の戸を開けた。 歩いてでも探しに行こうと心の中に芽生えていた決意はしかし、薄暗い外の風景を見るなり(しお)れてしまった。 緋色(ひいろ)の空を、闇を黒く切り取った影絵のように飛ぶカラスが目に入り、カーカーと鳴く声が聞こえると更に足がすくみ、怖くて玄関から道路に出ることさえ出来なかった。 それでも勇気を振り絞り靴を履き、やっとのことで玄関横の駐車場にある母の車の横まで歩を進めたが、ついにしゃがみ込んでしまった。 舞の黒目がちの大きな瞳から、溜めていた涙がぽろぽろと頬を転げ落ちた。 凪いでいたはずの夕暮れどきの路地の上を、突然風が通り過ぎた。 玄関わきにある立派なカイズカイブキの枝がざっと音をたてる。 「おい」 ふと、ブロック塀の角から声がして舞は顔を上げた。 薄暗い中にぼさぼさ髪の少年が立っていた。 舞よりずいぶん背が高い。 道の向こうのブロック塀際に立った黄色い街頭の逆光で、人の形のシルエットができている。 「これ、おまえのだろう」 ゆっくりと歩み寄ってきた少年の差しだした手に握られていたのは、失くしたはずの首飾りだった。 最初身を竦めた舞であったが、恐る恐る手を伸ばした。 「これ、おまえのだろう?」 言葉を繰り返した少年が、舞の手の上に首飾りを置いた。 「ど、どうしてこれを」 「おまえが川で落としたのを見た。だから拾って追いかけて来た」 「やっぱり川に落としていたんだ。でも、あの川からここまで、結構遠いはずだよ」 「うん。だから時間がかかった」 淡々と少年は答える 「ありがとう、ありがとう。もう見つからないって思ってた」 手渡された首飾りを受け取り喜ぶ舞を、少年は眩しそうに見ていた。 「ちょっと待ってね、お母さんを呼んでくる」 舞は家の中に駆け込むと、少年が首飾りを持ってきてくれたことを告げ、母の手を引いて玄関まで出てきた。 しかし、そこには少年の姿はなかった。 「あれえ、帰っちゃったのかなあ」 舞は玄関から道路まで走り出て、最初に声のしたブロック塀から左右の道を見たが誰もいなかった。 「照れ屋な男の子だったのね。この近所の子かもしれないから、見かけたら教えてね。今日のお礼しなくちゃ」 貴子と舞は玄関の戸をガラガラと閉め、家の中へと入った。 少しずつ寒さを増す十月末の夕暮れ。 透明で冷たい空気に満たされた西の空に、割れた硝子(ガラス)のような三日月が輝いていた。
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