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忘れ物
夏の盛りが過ぎ、賑やかだったクマゼミやアブラゼミの鳴き声が次第に減り、ツクツクホーシの声が野山に響くようになると、大地の全てを圧倒していた緑の勢いは陰りを見せ始める。
舞は夏休み後半の補修を受けながら、ぼんやりと校舎の窓から校庭とその後ろの野山を眺めていた。夏が始まった頃に比べると、校舎の西側に開けた、体育館の屋根越しに見える校庭に落ちる木の影が、少し北側に伸びているように思えた。
ひと夏の間に、舞には何人かの友人が出来ていた。
ちょっとした連絡事項の聞き忘れとか、提出物の締め切りとか、しっかり者の舞は人に尋ねるよりは尋ねられるほうだったが、小さな気持ちのやりとりが楽しかった。
「佐飛丸のアドバイスのお陰だわ」
心の中でそう反芻した。
補修の時間が終わり、本を鞄にしまっていると、隣の席の中原由美子が話しかけてきた。
由美子は明るくよく笑う、背の高い比較的整った顔立ちの少女だったが、ヒッツメ髪と厚いレンズの眼鏡できれいな顔を隠している。少しヲタク趣味があり、漫画や本を読むのが好きな舞とはよく気が合った。家も近くにあり、今日も一緒に帰ることになった。
由美子はとにかくよくしゃべり、大きな声で笑った。今日もお気に入りの漫画を舞のために持ってきてくれていた。由美子の母は舞の母が勤める薬局のある黒磯病院で働いているとのことで、そのことも気が合う要因のひとつだった。
「舞ちゃんのお母さんは若くて奇麗だって、うちの母が言っていました。こんな趣味もきっと笑って許してくださる方なのでしょうね。うちの母なんて歳が歳だし、ヲタク趣味を全く理解しようとしないのです」なんて愚痴をこぼして一緒に笑った。
本の内容や好きなアニメのストーリーを語り合いながらの帰路はあっという間で、気が付けば家の前の路地にさしかかっていた。
由美子に手を振り、家に入ると下駄箱の上にある見慣れた小さなポーチに目が止まった。
母がいつも免許証を入れているポーチだ。
まさかと中を開けて確認すると、ピンク色の皮のホルダーに免許証が入っていた。
「おかあさん、免許証忘れて仕事に行っちゃったんだ」
舞は鞄からスマホを取り出し、母にLINEを入れた。仕事中電話は取れないが、チラッとスマホの画面を見ることが出来るだろうと思ったのだ。
「お母さん免許証を玄関に置いたままだよ」
とメッセージを入れると、しばらくして既読になった。
それから数分後、スマホは軽やかな着信メロディを奏でた。
「あ、やっぱりそこに忘れていたのね」
「免許証、今から届けるから」
忙しいのか、舞に「ありがとう」という言葉もどこか上の空である。
「ごめんね舞。ここのところちょっと忙しくて、お母さんそそっかしいね」
舞は玄関に鍵をかけると、自転車に乗って西那須野駅に向かった。込み合った駐輪場に自転車を停めて切符を買い、在来線のホームに進む。古びたホームに停まっていた電車に飛び乗り、母の勤め先の最寄りである黒磯駅で降りた。
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