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乗合バス
夏の終わりの未だ強い夕暮れ時の陽の光が、舞の頬に斜めにあたっていた。
那珂川の畔をとぼとぼと歩くと、伸び始めたススキの穂がゆるやかな風に揺れていた。
母に免許証を届けたあと、一緒に車で帰り、あわよくば買い物でもできればなどと抱いていた淡い期待は、貴子の残業により露と消え、舞はひとり帰宅するべく、黒磯駅に着いたのだが、次の電車まであと30分ほど時間があり、暇つぶしに散歩に出たのだ。
「おい」
聞き覚えのある声に、舞は振り返った。
ぼさぼさ髪の少年が手に猫じゃらしを持って、指でくるくる回しながら舞の後ろに立っていた。
「こんなところで何してんだオマエ?」
「お母さんが自動車の免許証忘れて来ちゃったっていうから届けに来たのよ。佐飛丸こそここで何してるの?」
「お前と似たようなもんだ。ナカの婆さまの用事で呼び出された」
「へえ、ナカの婆様?お祭りのときに見た―――ん?あれ?あれは夢じゃなかったわけ?」
「まあ、そういうことだな」
決まり文句のように佐飛丸がつぶやいた。
「私はお母さんの車に乗せてもらって帰るつもりだったけど、今日は忙しくて残業なんだって。だから電車で先に帰りなさいって言われちゃったの」
期待が外れてしょんぼりした舞の横顔を、佐飛丸は横目でチラと見た。
「そうか、ちょっと寂しいな。よし、しょうがねえから俺が一緒に送って行ってやるよ」
「ホント!?じゃあ駅までお話しながら歩こっか」
舞の表情にぱぁっと明かりが灯る。
「駅?ああ、電車ってやつには乗らないぞ。乗合バスで帰ろう」
「乗合バス?」
「お前、時計を持ってるだろう?今何時だ?」
舞は腕時計を見た。
「えっと、五時五十八分だけど」
左飛丸はにっと笑った。
「六時の乗合バスに間に合うな」
「??何も来ないよ?」
舞は背伸びをして道から遠くを見た。
暫くして、ゴーン、と北の山の麓にある寺の鐘が鳴った。
「壱号車が行ったぞ。弐号車でタイミングを計って、参号車に乗る」
「えー、バスなんて見えないんだけど」
「あはは。おれにも見えないぞ。乗合バスは乗るか聞くもんだ」
ゴーン、と二回目の鐘が鳴る。
「弐号車が行ったな。おい、乗る準備しろよ」
「もう、わけわかんない」
「しょうがねえなあ」
佐飛丸は、舞の背後に回ると、左の脇に頭を入れた。右腕で肩を抱き、左腕で両足を持ち上げる。お姫様だっこの体勢になった。
「ちょ、ちょっと何するのよ?!」
舞の悲鳴に似た言葉を聞いて聞かずか、佐飛丸は、
「せえの」という掛け声とともに、舞を抱いたままぴょんと跳ねた。
ゴーン。
三度目の鐘が鳴った。
「よし、乗れた」
二人はたちまち空に向かい上昇した。
佐飛丸の肩越しに見える夕暮れの那須野が原の風景がびゅうびゅうと後ろに流れている。
新幹線を追い抜き、高架橋の上を佐飛丸に抱かれたまま、南に向かって飛んでいる。
右手に、女峰山に傾いた夕日が見えていた。
あまりの高さに、佐飛丸にしがみつく手に力が入った。
「ねえ!!これって、飛んでるの?」
「そうだ」
「なんで飛べるのよぉー!?」
「寺の鐘の音がしたろ。あれに乗ったんだ」
「ひょっとして、乗合バスって、お寺の鐘の音なの?」
「そうだ」
「信じられない!!」
「六時の鐘だから、バスが陸号車まで出るから乗りやすい。一時とか二時はタイミングが取りにくくてなかなか乗れない」
「いやいやいや、乗りやすいとか乗りにくいとかいうレベルじゃなくて――」と舞が突っ込み入れる時間もなく、
「そろそろバスが消えるぞ。箒川に降りるからな」
隕石の様に落下する二人。
「きゃあ!落ちる!!」
魂が消えてなくなるような落下する感覚に舞は必死で耐えた。
しかし着地点に近づくほど速度はゆっくりになり、佐飛丸は舞を抱いたまま、ふわりと箒川の堤防に降りた。
「着いたぞ」
力の限り佐飛丸に抱き付いていた舞はふと素に戻った。
そっと目を開けるとぼさぼさ髪の下の大きな切れ長の瞳がじっと舞を見つめていた。
みるみる顔が赤くなる。
「ちょ、ちょっと降ろしてよ」
急に腕の中で暴れだした舞を、佐飛丸は草の生えた堤防の上に放り投げるように降ろした。どすんと腰から落ちる。
「痛あーい!―――なんで急に降ろすのよ」
「お前が降ろしてくれって言っただろうが」
「もう、佐飛丸のバカ。知らない」
「ここからだと、お前の家に近いだろう。じゃあな。おれは帰る」
後ろ姿のまま、蛇尾丸は手を振った。
「ちょっと佐飛丸――」
左飛丸が振り向いた。
「なんだ」
「佐飛丸って、どうしてこんなことが――――」
びゅうと、夕暮れには思いがけず強い風が吹いた。
舞は思わず目を瞑り、再び開けたときには佐飛丸の姿はそこにはなかった。
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