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命は悲愴感のこもった表情をし、次いでこれでもかと歪めた。深雪たちは何が何だか分からず、無言で成り行きを見守る。
ところが命は注目を浴びていることなど心底どうでもいいようだった。深雪たちを一顧だにせず、宙を飛んでいる寄生蜂たちに向かって縋るように両手を伸ばす。
「頼む……僕の友人たち! 僕の言葉に応えてくれ!」
全身全霊を込めた請願の声。しかし、ピンクの蜂たちは命の言葉が理解できないのか、そっぽを向くと、そのまま別々の方向へ飛び立ってしまう。
それは完全に、どこにでもいる普通の蜂が取る行動だった。神狼に襲われた命を助けようとしていた時とは、まるで違う。
深雪には蜂の行動も生態もよく分からないが、それが命にとって受け入れがたい異常事態であるということは容易に想像がついた。
あれほど懐いていた蜂たちが見向きもせずに去ってしまったのだ。命にとって半身を失うほどの衝撃であるに違いない。
「ああ……やっぱり……! 僕のアニムス《アガシオン》が効かない……!!」
案の定、命はこの世の終わりのような声音で叫んだ。一部始終を目にしていた神狼は「信じられない」という表情でつぶやく。
「アニムスが無くなった……? つまり……ゴーストでなくなったという事カ……!?」
異能力者であるかどうかは、アニムスを持つか否かで決まる。たとえアニムスを持たないゴーストであっても、実際にはアニムス波という特殊な電磁波を発している。表には出ないものの、微弱なアニムスを所持しているのだ。
そのアニムスが無くなった―――つまりゴーストではなくなったのだ。
ゴーストでなくなったら、何になるのか。アニムスを持たないゴーストは、ただの人と同じではないか。
その事実に気づいた神狼は愕然とする。
「命……」
「来るなぁっ!!」
近づこうとする深雪を命は大声で制した。そして戸惑う深雪に、激しい憎悪を滾らせた瞳を容赦なくぶつける。
「君だろう? 僕からアニムスを奪ったのは! 何てことをしてくれたんだ? ……戻してくれ! 人間なんて醜い存在になり下がるのなんてまっぴらだ!! 今すぐゴーストに戻してくれ!!」
深雪は目を閉じて首を横に振り、「それはできない」と命に告げた。
「……俺はただ、命に人間に戻ってちゃんと罪を償って欲しいだけだ。このまま罪のないゴーストを殺し続けたら、遅かれ早かれ命は《死刑執行人》に狩られてしまう。だから……生きて償うんだ」
しかし深雪の言葉は、命の中で燃え盛る怒りの炎に、さらに油を注いだだけだった。命はどす黒い感情を剥き出しにし、吠えるようにして叫んだ。
「罪? ……償う? 笑わせるな!!」
「……命、君は間違えたんだ。たくさんの無関係の人を巻き込んで、怪我をさせたり命を奪ったり……たとえゴーストであっても赦されることじゃない。……命、君だって言ってただろ。『悪は裁かれなければならない』って。だから……」
深雪は必死で言葉を探した。どうしても命に理解して欲しかった。
しかし心のどこかでは、自分の言葉が決して命には届かないであろうことを悟りはじめていた。深雪の『悪』と命の『悪』は違う。そして、その溝は容易には埋められない。命は己の下した選択を、おそらく後悔もしていないし、間違っているとも思っていないのだ。
深雪の胸に諦めにも似た冷たい感情が、ひたひたと満ちていく。
すると命は突然、「ははははは」と乾いた笑い声をあげた。
「……そうか、そういう事か。今度は君が秩序になって僕を従わせようってことか!?」
「違う! 命、聞いてくれ!!」
「冗談じゃない……お前の思い通りになってたまるか!!」
「命!!」
「《アガシオン》の能力は僕の人生の全てだ。自然と通じ、会話できたから僕はここまで生きてこれたんだ! 僕にとってアニムスを失うとことは、全てを失うことと同義だ! ゴーストでなくなった僕に―――人間に戻ってしまった僕に価値なんて無いっ!!」
命はぐしゃぐしゃに表情を歪め、全身を戦慄かせて叫んだ。そこには先ほどまで命が発していた神々しいまでの自信は、微塵も残っていない。
深雪は、どこか空虚な気持ちで命を見つめていた。財産、地位、名誉。それらを全て剥ぎ取られた人間は、このような姿であるのだろうかと。
命は哀れだった。失われたアニムスを求め、目を血走らせるその様は、飢えと渇きに苦しむ地獄の亡者そのものだ。
「そんなことない! アニムスなんて無くたって、人の価値は変わらないだろ!!」
深雪もまた叫んだ。どれだけ言葉を吐き出しても命には届かない。分かってはいたが、それでも叫ばずにはいられなかった。
すると、その刹那だった。命の両目から光が消え失せる。
あれほど強い感情を宿していた瞳は突如として力を失い、黒々とした洞となる。嵐の時の荒れ狂った波間からのぞく海底よりも、なお深い闇色。
それは蝋燭の火が風に煽られ消えるときと同じように、あまりにもあっけなく訪れた。
深雪は背筋にぞくりとしたものを感じながら、息をのむ。
「……あなたに僕の何が分かるっていうんだ、深雪さん。『持つ者』であるあなたに、僕たちゴミ屑の何が理解できる? ここではアニムスが全てだ。『特別』でないただのゴミがどれほど惨めか……僕はもう、あんな思いはしたくない……」
そう言うと命はふらり、ふらりと歩き出す。今にも朽ちてしまいそうな枯れ木のように頼りない足取りで、どこへともなく歩いて行く。
「命! よせ!!」
深雪は瞬時に悟っていた。命が何をするつもりであるかを。
深雪の制止の声を振り切り、命は狂ったように走り出す。そして温室から張り出したバルコニーへと一直線に走っていった。
「―――……命!!」
全ては一瞬だった。
命は一分の躊躇いを見せることなく。そこから宙へ身を躍らせた。
まるで汚らわしい地上から清浄な世界へと飛び立とうとしているかのような、そんな清々しささえある跳躍。
深雪は命の後を追って手を伸ばした。足元のコンクリートがぼろりと欠け、落下していく。
背後からそれを目にしたシロの悲鳴が聞こえて来る。深雪も落下してしまうのではないかと思ったのだろう。
シロの声にも構わず、深雪は崩れかけたバルコニーから身を乗り出した。しかし、その手は命の体を掴むことはなかった。
最後に落下していく命と、手を伸ばす深雪の目が絡み合う。命は薄っすらと微笑んでいた。困ったような、疲れたような、そんな空虚な微笑みだった。
そして友達だった少年は、そのまま地上へと吸い込まれていく。深雪はただ、それを呆然と見つめていることしかできなかった。
バルコニーに残されたのは静寂のみだった。
深雪は彫刻のようにその場に固まり、ただ真下を凝視することしかできなかった。主を失った温室からゴウゴウと風が吹きすさぶ。まるで、こんな結末を招いた深雪を責め立てるかのように。
深雪はがくりとその場に膝をつく。その途端、胸の奥からどっと感情の塊が溢れ出した。怒り、悲しさ、悔しさ、そして無力感。
自分に対する失望と、命に対する絶望が、竜巻となって荒れ狂う。そのあまりの激しさで心身がずたずたに千切れそうだった。
「命、どうして……! 俺は命に死んで欲しくなかった。生きていて欲しかっただけなのに……!!」
深雪はただ打ちひしがれ、嗚咽を漏らす。シロはそんな深雪に静かに寄り添った。背中に添えられた獣耳の少女の、手の平の温もりだけが深雪の心を支えていた。
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