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予兆
コポ、コポコポ……。
気泡が登っていく音が耳を掠める。
葵は底なしの海底へとゆらゆら沈んでいく。
そのうち光が遮断されるところまで落ちてきた。
落ちていくにつれて、今度は軽快な音楽が近づいてくる。
いつの間にか地に足がついていて、ついに底に辿り着いたのだとわかった。あたり一帯が闇で覆われて何も見えない。
急に音楽のボリュームが高くなり、ビクリとする。そんな奇妙な空間とは裏腹に、軽快な鼓と、小鳥のさえずりにも似たお囃子が、祝言を祝う音であることを告げている。どこかで聴いたことのあるような音楽だ。いつ、何処でかは覚えていないが。
葵の前には、いつの間にか白無垢を着た花嫁が俯き、鎮座していた。
顔は見えないが、その様子は決して幸福ではなく、むしろ失望感が伝染してくる程に生気がない。
その花嫁と対峙するように、葵は立ち尽くしている。
何度も近づこうとしてみたが、地に足が張り付いたようにピクリとも動かず、声を掛けようにも、喉が枯れたように空気中で掠れるだけだった。
ピタリと音楽が不自然に止まり、しんと静まり返った。闇がより深くなったような気がして、葵の心に不安が津波のように押し寄せる。
これから何かが起こる予感がする。
ツーっと、葵の額を雫が伝うのを感じた。
(──何?)
花嫁の様子がおかしい。
急に身をよじりだすと、車で急ブレーキでもかけたかのようにガクンと前のめりになった。その勢いで純白の綿帽子吹っ飛び、葵の足元にくしゃりと落ちた。
葵は棒のように動かない足元を見つめることしか出来ない。
花嫁が言葉にならない声で呻き出した。
その嗚咽は怒り狂った獣のようだが、どこか哀愁が漂っている。
(──怖い!)
両手で自分の体を抱いて震えを止めようとするが、恐怖は増すばかりだ。
今すぐ逃げ出したいのに、やはり体は思い通りにならない。血管がドクドク脈打ち、呼吸が荒くなる。
花嫁が伏せっている床から、赤黒い液体が這うように流れ、葵の足元をドロドロと覆っていく。
足元から視線を戻すと、花嫁がゆっくりと上体を起こすところだった。
まるで地中から這い出でるような動きを、見てはいけないと思うのに、視線を逸らすことも、目を閉じることさえも出来ない。
遂に花嫁が顔を上げる。
葵は目を見開いた。
綿帽子の下から覗くのは、葵と瓜二つの顔。
その目から地面を覆う液体と同じ赤黒い血が流れ、純白の着物にシミを作り、じわじわと染め広がっていった。
荒い呼吸に混じって洩れる声は悲鳴にすらならない。
(──嫌だ! 助けて! 誰か!)
額から流れ落ちた汗が目に入り、反射的に目を瞑ってしまった。
目を擦り、恐る恐る瞼を持ち上げる。
全身の筋肉が硬直した。
赤黒く汚れたもう一人の葵の顔。
瞬間移動でもしたかのように音もなく、目の前スレスレに立っていた。
同じ背格好で頭の位置も一緒なせいで、互いの顔を間近で視認し合う。
光のない瞳は、この空間と一緒の色をしている。
────死神。
少なくとも葵の眼にはそう映った。
(──私、死ぬんだ……)
葵の胸、ちょうど心臓の位置に同じ顔をした死神が手を置いた。
その瞬間、血で汚れた皮膚から腐敗したようにただれ、みるみるうち剥がれ落ち、筋肉、骨すらもボロボロに砕け、その灰は最後まで残っていた手を伝って、葵の体内へと侵入していき、やがて姿を消した。
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