花は地に落ちて

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花は地に落ちて

 火の圧と黒煙で、息が苦しい。人の駆ける音と叫び声に、気が乱される。  広縁の影に隠れ、人目を避けて、紀昭(のりあき)は城の庭を進んでいた。後ろをついてくる人をかばいながら。  ふいに怒号が間近であがる。  突きだされた槍の穂先を、刀で振り払った。先手を制されて、兵は怯んだようだった。紀昭はそのまま相手の懐へ飛び込んで、槍を握る手を蹴りあげる。音をたてて槍が地面に転がり落ちた。ひい、と相手が息を飲む。その間に返す刀を振り上げ、首をはね上げた。怯んだ顔が宙を舞う。  死体が、立ったまま血を噴き出す。後ろに続いていた雑兵が槍を繰り出してきた。及び腰で力もない。  紀昭は屈みながら避けると、床に転がっていた槍を拾い上げ、兵に向けて投げつけた。槍は貧弱な鎧の胸を突き刺して、兵が仰向けに倒れる。  周囲を見回し、他に人の姿がないのを確かめてから、後ろへ声をかけた。 「姫、御無事ですか」  か細い少女は、白い頬を炎に照らされて、立ち尽くしている。その足は、庭を駆けたせいで汚れている。小花の文様の単衣も煤汚れ、黒髪が乱れて顔にかかっていた。 「わたくしは大事ないわ」  胸を抑え、乱れる息の間から、そっと声を出した。  紀昭はただ頷く。少しだけためらってから、刀を持たない左手を伸ばし、少女の手を取る。この人の手に触れるのは、いつ振りであろうか。 「御無礼をお許しください。参りましょう」  ええ、と、少女は小さく頷く。そして本丸の、この城の主がいるはずの方角へ顔を向けた。 「かわいそうな人」  夫を哀れんでか、少女はひっそりと涙を流した。  紀昭が姫と呼んだその人はもう、姫と呼ぶべき立場ではない。鴻江(こうのえ)家当主の妹姫だった双葉(ふたば)姫は、今は重水(しげみず)家当主の妻だった。だが鴻江家に仕える紀昭にとって、この可憐な少女は、いつまでも小さな姫君だった。  紀昭は幼少のころから、姫の守役として側にあった。一年前に姫が重水家へ嫁いだ際も、鴻江の臣として従ってきた。  姫の夫となった重水家の若い主は、優しげではあったが、及び腰であった。そのため、血気盛んな同腹の弟に、常に地位を脅かされていた。この乱は、臣にそそのかされた弟が、兄を追い落とすために起こしたものだった。  憐れな姫の夫は、火に巻かれて驚き怯えていることだろう。 「どうか御容赦ください、姫」  紀昭は姫の手を強く引いて、再び歩きだした。  重水家中の、不穏な動きに気がついた紀昭の報を受け、鴻江家のとった道は、姫の夫を救うことではなかった。  紀昭は、まず姫の夫に弟の叛意を伝え、事があれば必ず援軍を出すと、かたく約束をした。  そして姫の兄の命で、重水家の弟君には、「当主にはあなたこそがふさわしい、兄君は姫の夫にふさわしくない」と囁いた。姫を兄から奪え、と。そして改めて両家の絆を深めようと約定をかわした。  鴻江家は援軍と称して軍を出す。重水家の兄も弟も、我が援軍だと疑わないだろう。  だが、鴻江家は、どちらも助ける気などない。重水家の家中が乱れ、決着のついた頃合いをみて、優勢であった方を討つ。  紀昭は、身命を賭して守り続けてきた姫の夫をおとしいれ、殺す。ためらいはあったが、主家の命に逆らうつもりはなかった。  この変乱を乗りこえ、鴻江家の軍に合流出来れば、たった一年の短い同盟は終わる。姫は鴻江家に帰ることとなる。 「殿の御為に働き、この謀が首尾よく運べば、わたしは褒美を貰えます」  人目を避け、目立たない搦め手門へ向かいながら、紀昭は言った。ただ前を向いたままで。 「殿に願い出て、無事姫を助け出した暁には、私との結婚を認めてくださるとおおせになった」 「愚かなことを」  姫は、憐れむように言った。 「せっかくの立身の機を、そのような願いで無にするなど」 「いいえ。姫、これが幼き頃からの願いです」  主家の姫とつりあう身分でないことなど分かっていた。姫のそばに仕えることができれば、それで十分だと己に言い聞かせ、ただただ見守ってきた。  だが、一国を手にする、この大きな手柄があれば。 「分をわきまえぬ願いを抱き続けたことをお許しください。ですが」  紀昭は言葉を継ぐことができなかった。  どん、と衝撃が体を貫いた。左の脇の、後ろ。背中の方から。  姫の手に握られた守り刀が、後ろから、紀昭の脇腹を突き刺していた。右の手で紀昭の左手を握ったまま。  血が滲み、それに気づいて激痛がはしる。 「姫……?」  髪を乱し、白い頬を炎に染め、姫は静かに笑っていた。 「かわいそうな人」  双葉姫は、そっとつぶやいた。  紀昭は、姫のそばにずっとあった。主の妹の輿入れに従って他国へやってきて、そのために、出世を逃した。  そして今もまた。 「鴻江の兵は、勝てないわ」  愚かな人。愚直で、疑うことを知らない、かわいそうな人。 「夫はお前の働きに気づいていた」  弟の動きにも、蠢動する鴻江家の動きにも。  彼は姫を夜ごと組み敷いて苛み、執拗に問うた。 「わたくしは、すべて話してしまった。弟君をそそのかしたのがお前であることも、鴻江の援軍を装った兵が、この城を取り囲むだろうことも。殿はすでに兵の手筈を整えて、鴻江が動けばその後ろを突く用意があるわ」 「姫……」  痛みにか、驚きにか、紀昭はやっとそう声を出した。力を無くした膝が、土に落ちる。それを見て、双葉姫は微笑んだ。 「わたくしはどうしたいのかわからないの」  これは同盟のための婚姻だ。婚家において、実家のために働くのが、嫁いできた者の勤めだ。  だが手駒として生きて、それを喜びとすることも、己の使命とすることも、できなかった。  もうなにもかもに飽いていた。  幼い頃は紀昭と目をあわせて笑い、時には手を取って小さな庭を駆けた。大好きだった。ずっと離れることはないと信じていた。  だけど、年を重ねて、それぞれの立場が邪魔をして、いつの間にか大きな隔たりが出来た。  仕方のないことだった。分かっていた。  紀昭はずっとそばにあった。ただそばにあっただけだった。実直な紀昭は変わらず姫に仕え続けた。  そういう姿を見ているうち、小さな恋心は、いつの間にか汚泥のように、姫の心の底に沈んでいた。  本当は彼が少しも平気でないことに、気づいていた。姫と呼ぶその声音に、時折熱がこもるのも知っていた。嫁ぐと決まった時、重水家まで従ってきたこの男が、じっと耐え忍ぶのも。  だがそういったものは降り積もって、どんどん心の中に泥をためていく。  姫、と呼ぶ声を、徐々に凪いだ心で聞くようになった。  きらきらしい思い出は、塗りつぶされた。日月を経ようとも変わらぬ男を見て、同じ日月の間で姫は汚泥に沈んでしまった。  膝をついて傷を抑える紀昭を見下ろして、ただ憐れんで双葉姫は言った。相手も己をも憐れんで。 「光陰は戻りはせぬ」  枝から零れた花は、地に落ちて腐れるだけ。枝に戻り、咲き誇ることはない。 「もっと早く、言うてくれれば良かった」  口にしたところで、無駄だったろう。だが、もし、と思うのだ。  幼い口約束とて、何もないよりは良かったのではないかと。儚い宝物として、抱えていられたのはないかと。もしかしたら、もっとつらく苦しい思いをすることになったのかもしれないが。  得られなかったものは、輝いて見える。  だがもう、遅い。 「鴻江の娘としての役目は果たした。わたしは重水の妻として死ぬ」  そう口にしたものの、責務などどうでも良かった。そう言えば、紀昭が惑うから口にした。体も心も重い。逃げ伸びるのが億劫だった。  姫は、応えられない紀昭を残し、踵を返して歩きだした。  炎は音を立てて燃えあがり、城を飲みこんでいく。堅く閉ざされた本丸大手門の前で、戦支度を整えた夫は、馬上にあった。鴻江家が動きだすのをただじっと待っていた。城を代償に、弟の命を代償に、じっと待っていた。  及び腰と言われるのは、忍耐のせいだ。 「逃げ出したのではないか」  歩み寄る双葉姫を見て、彼は薄く笑う。 「逃げませぬ。わたしはあなたの室なれば」 「ぬかせ」  重水家の若い主は言い捨てた。  互いに相手のことなど見てもいない夫婦だった。だが、ひたすら何かを憎む心は、同じだった。このようなことがなければ、いつかは盟友としてあれたかもしれない。  はたして、謀に身を砕く鴻江家と、重水家と、どちらがこの世を生き延びるだろうか。 「御方様」  夫を守る兵の誰かが叫んだ。  振り返ると、抜き身の刀を手に提げて、血まみれの紀昭が、そこに立っていた。  やはり、追ってきたのね。暗い喜びが、姫の心にともる。気がついた時には、紀昭の刀が振り上げられていた。  衝撃が走り、切りつけられた胸から、血が噴き出した。 「ひどいわ……」  もらした声と共に、唇から血が滴り落ちる。  もっと上手に殺してくれればいいのに。 「姫、この心はあなたの元に」  紀昭は、愚直な言葉を口にする。 「ですが、わが身は鴻江の臣なれば。忠義は殿に」  そうであろうとも。  だからこそ、夫の謀もすべて話したのだ。必ず追ってくるだろうと思っていた。  かわいそうな子。  痛くて苦しくて、気がつけば地面に倒れていた。頬が冷たい土に触れている。  どうしたいのか、もう分からない。何のために、誰のために、こうしてここに来たのか。ここにいるのか。わからない。  姫自身も、この実直で憐れな男も。  ただ、苦しめばいい。  主家の姫を手にかけたこと。幼い頃から思い続けた相手を手にかけたこと。  ただ見つめて何もしないお前を恨んだわたしと同じように、命ある限り恨み苦しめばいい。  どうせもう、わずかな時であろうけれど。どうせなら生き延びて、苦しめばいい。  だけど、思う通りにはならないだろう。  紀昭はまっすぐに姫を見ている。  逡巡も怒りもない。ただ悲しみだけがある。まぶしくて、嫌になる。  長い年月何も口にせず、ただただ静かに姫を思い続けたのと同じに、この男は、ただ真っ直ぐに己の身を務め果たし、生きて死ぬだろう。今日討たれるか、主のために生き延びるか、分からないけれど。  ああ、憎らしい。  目の前が赤い。炎の色か、血の色か、分からない。  光陰はただ過ぎていく。地に落ちたわたしはただ腐れるだけ。                                終わり
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