いっそあなたに憎まれたい

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いっそあなたに憎まれたい

 まあ、神父さま。こんな寂れた場所にわざわざありがとうございます。本来ならこのような特別扱いなどあり得ないことは承知しておりますのに、十分なお礼もできず本当に申し訳ありません。  どうなされたのです、何だか今日はひどくお声がかすれておられるような。お風邪を召されたのではありませんか。確かにここ数日でずいぶんと寒さが堪えるようになりました。そうであれば、なおさらこのような場所にお越しになってはなりません。隙間風もありますから、お身体に(さわ)ってしまいます。  いいえ、いいえ、まさか迷惑だなんて。もちろん、嬉しゅうございます。冬の夕暮れにひとり繕い物だなんて、いくつになっても寂しいものですもの。神父さまがいらっしゃって下さったのですから、暖炉に火をいれましょうか。まあ、本当によろしいのですか。いいえ、明かりがともれば私の醜さも目立ってしまいます。こちらとてありがたいことです。  出立の準備は既にととのっております。あちらにあります鞄をひとつ抱えればそれでおわり。もとより私の荷物はたいしたものもございませんでしたので。すべて、神父さまのおかげです。離縁後に修道院へ行きたくとも、修道院への持参金すら準備することが難しい私を受け入れてくださるような場所はありませんでしたから。何とお礼を申し上げたものやら。  旦那さまと結婚した際の持参金ですか。さあどうなったのでしょうか。お恥ずかしい話ですが、あれももともとは、親戚に頭を下げてかき集めたものですから。今は私の手元にはない、それだけしか申し上げようがないのです。これといった贅沢をした覚えはないのですが。そうですね、旦那さまの妻として迎えていただいた、それこそがこの身には過ぎるものだったのかもしれません。  行く場所さえ決まれば、本当に心持ちも楽になるものです。妹もすでに婿を迎え入れた身ですから、石女(うまずめ)の姉が実家に帰ってくることは受け入れがたいでしょう。このままでは、街で春をひさぐしかないものかと思案していたものです。  意外に思われましたか。このような醜女でありましても、未だ清い身の上ですから、貴族の端くれとしてそれなりに需要はあるのだそうです。とあるひとに教えて頂きました。女としての幸せを一瞬でも望むのならば、そのような場所で暮らしてみるのも良かったのかもしれませんね。  ふふふ、ええそうなのです。お義父さまやお義母さまは、「女三年、子なきは去れ」などとおっしゃいましたが、私が子を宿すわけがないのです。いくら祈りを捧げようとも、私は聖母になどなれないのですから。  もしも、この腕に旦那さまの子を抱くことができたなら。あの甘く柔らかいふにゃふにゃとした小さな命を、この胸で抱きしめられたなら。それが私の血を引くものでなかったとしても、どんなに幸せだったことでしょう。  もちろんわかっております。子どもというものは、まことの親から引き離すべきではありません。私のこの感情は、ただ私だけの感傷に過ぎないのです。正妻というだけでは家族の輪の中に入れないことは、仕方のないことなのです。  ああ、それでも、寂しいという気持ちが消えることはありません。ここは本当に寒過ぎるのです。誰にも気がつかれることのないまま、ひとりぼっちで凍えて死んでしまうなんて悲し過ぎるとは思いませんか。私はこんなにも涙を流しているというのに。  愛されぬことがわかっていて、どうして結婚したのか。そんな意地悪など、おっしゃらないでください。神父さまだって、世の理は既にご存じのはずではありませんか。貴族の婚姻というものは、家の存続、国家の安定のために行われるもの。  そこに個人の感情など必要ないのです。もちろん政略結婚であったとしても、仲睦まじく暮らされる方々は確かにおられるのでしょう。恐れ多くも現国王陛下と妃殿下は仲睦まじいことこの上ないと耳にしております。けれど実際のところ、寂しく物悲しい気持ちで過ごす夫婦の方がこの世の中には多いのではないでしょうか。  いっそ巷で流行している大衆小説のように、男性の皆様が真実の愛を見つけて、私たち女どもに「婚約破棄」をしてくださればどれだけ良いでしょう。父に従い、夫に従い、息子に従うように教え込まれる私たちに、愛する人を選ぶ自由などないのですから。  私にできることは、旦那さまたちのお邪魔にならないようにこの離れでじっと息を潜めていることだけでした。この離れの窓からは、母屋のお庭が見えるのですよ。ここから外をずっと眺めていれば、まるで宗教画のような美しい家族を見ることができました。  旦那さまが笑ってくださるならば、その隣に立つのが私でなかろうとも一向に構わなかったのです。正妻とは、利害関係から成り立つもの。まこと愛される方をお側にお召しになるのは、当然のこととも言えましょう。  旦那さまを愛していないのではありません。私の心は、初めから夫である旦那さまに捧げられておりました。とはいえ、夫となるひとに愛を乞うてはならないと、私は母から教わっておりましたので、それは庭の花々にしか話したことのない私だけの秘密なのですが。  乞えばそのぶんだけ傷つくのは自分なのだと、そう母は繰り返していたのです。子が欲しい。愛してほしい。せめてお側にいさせてほしい。そんな言葉を口にすることなど私にはできませんでした。すべて臆病な私が悪いのです。  愛する方がいらっしゃるなら、最初からどうしてその方と結婚しないのかしら。かつて無邪気に尋ねた幼い私へ、両親がたいそう呆れた様子で答えてくれたのをよく覚えております。  本当に好いた女は、妾にしかできぬものなのだと。そう答えた父と、当然のようにそういうものだと頷いた母。それぞれどのような思いを抱えていたのでしょうか。王子さまとお姫さまはいつまでも幸せに暮らしましたなんて、ありもしないおとぎ話を信じていた私を、なんと愚かなことだと神父さまはお笑いになりますか。  この屋敷で、私を奥さまと呼ぶ者は誰もおりませんでした。旦那さまからも、あの方からも、屋敷に仕えるものからもいないものとして扱われる日々。愛されることもなければ、疎まれることもありません。旦那さまやあの方から、悪意を向けられないことに感謝すべきだったのかもしれません。  けれど私は、ただひとりで過ごすその時間を穏やかな日常だと思うことはできませんでした。屋敷から連れてきた侍女ですか? 彼女はこちらに来てすぐに実家に戻してしまいました。私は旦那さまやあの方の悪口を聞きたくはなかったのです。だって、私は旦那さまを愛しているのですから。  旦那さまとあの方と天使のような子どもたち。笑顔あふれ、光輝くあの場所に、私も混じりたい。同じ空気を吸わせてほしいと思うことは、それほどまでに分不相応な願いなのでしょうか。  愛されないのであれば、私はいっそ憎まれたくさえありました。愛の反対は憎しみでしょうか。いいえ、無関心です。先ほども申し上げました通り、旦那さまは私を邪険になどなさいませんでした。それは、旦那さまにとって私が、ただの取り換えのきく道具だったからに過ぎません。  道具に感情を動かすことなど、あり得ないでしょう。旦那さまはきっと三年の辛抱だと思われたのです。そうすれば本当の家族だけで過ごすことができるのだと、信じておられたのです。  ああ、お気の毒な旦那さま。私を追い出したところで、同じような女がまた送り込まれてくるだけですのに。旦那さまはまた繰り返すのでしょうか。離れに三年もの間女性を追いやって、また外に放り出すことを繰り返すだなんて、本当にひどいお方。新しい女性も、あの方も本当にお可哀想です。  なぜ、だなんて、むしろどうしてお尋ねになるのですか。当然のことでございます。旦那さまのお相手は平民の女性。しかも、この国の出身ではありません。  もしもあの方を正式な奥さまとしてお迎えになるのが可能なのであれば、最初からそれなりのご家庭の養子となってこちらに嫁いで来られたはずです。それをなさらずに旦那さまのご両親が私を正妻に迎えたということは、あくまでもあの方をお認めにならないつもりなのでしょう。  正妻に子が生まれれば、庶子のお子さまがたはきっと不安を覚えることでしょう。立場の違いに苦しみを覚えることになるに違いありません。あの方もいらぬ心配に悩まされるはずです。とはいえ、他にお子さまが生まれなければ庶子といえどもお子さま方がこの家を継がれることだと思います。旦那さまが新しい奥さまに情を持たなければ、何も問題などありません。  憎まれたいならば、あの方を傷つければ良かった? いいえ、まさか、どうしてそんな恐ろしいことができるでしょうか。旦那さまが愛した方を、私が傷つけられるはずがないのです。旦那さまの幸せを傷つけることは、旦那さまを傷つけること。それに私は、あの方を羨みこそすれ、嫌ってなどいないのですから。  矛盾したことを申し上げているのかもしれませんが、そこまであの方を愛することができる旦那さまだからこそ、私は愛おしいと思うのです。あそこまで一途に旦那さまを愛するあの方だからこそ、お慕いしているのです。誰を敵に回しても、誰を蹴落としても、誰を不幸にしても守りたいひとがいるだなんて、それは何よりも幸せなことなのではないでしょうか。  ですから、私は旦那さまが私に愛を囁いてくださったところできっと嬉しくはないのです。あのように素晴らしい家族をお持ちになっていながら、それを捨てたとしたならば、同時に他の女と平気で子を作ることのできる情の薄い男なのだとしたら、私はその瞬間にきっと旦那さまのことを軽蔑してしまうに違いないのです。ええ、何とも難儀な愛でございましょう?  愛されたいのです。いいえ、憎まれたいのです。それさえも叶わぬというのなら、小さなささくれのような痛みだけでも旦那さまに残したい。  あら、どうなさいました? こんなに震えていらっしゃるなんて。もうすっかり日も落ちてしまいました。貴いお身体には寒さがこたえるのでしょう。いくら清貧が美しいこととは言いましても、やはり暖炉に火を入れた方がよろしかったのではございませんか。  そんな、いけません。神父さまはその身をあの方に捧げたお方。一時の気の迷いで、私ごときに心を傾けてはなりません。これは恋ではありません。ましてや愛でも。哀れな醜女に情けをかけて、あの方を裏切るおつもりでしょうか。  ああ、けれど。この腕に抱かれて夢を見ることができたならば、どんなに幸せなことでしょう。その優しいお声で私の名を呼んでくださったなら、私は何を捨てても構わない……。いいえ、いいえ。届かぬ愛を捧げるのはもはや終わり。神へ仕えるようになればきっと穏やかに暮らせるはずでございます。  旦那さまと同じ白檀の香りにつられて、神父さまについ甘え過ぎてしまいました。どうぞお忘れになってくださいませ。ええ、今までもこれからもあなただけを愛しているだなんて、気狂い女のただの戯言です。
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