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【蓮の絵】
スカートのタックに癖をつけるためにアイロンをかけておりますと、ドアに付いたチャイムが鳴って来客を知らせました。
「いらっしゃいませ」
「うー、さぶさぶ」
ぐるぐる巻きにしたマフラーに顔の半分を埋めた男性が、こもった声でおっしゃいます。目元だけでもお顔立ちが整っていると判ります。歳の頃は60代後半でしょうか、頭髪に白いものが目立ち始めています。
確かに今日は大変に冷え込みます、厚い雲が垂れ込める冬は底冷えがしんしんと染みるような気がします。陽も傾きかけているので、寒さは余計に増しました。
「どうぞ、ストーブの近くへ」
ソファーの近くで燃えるバイオエタノールの暖炉を勧めました、男性は「ありがたい」と言ってそちらへ向かいます。
ついでなので、コーヒーもお出ししました。
「ああ、ありがとう、あったまるね」
ソファーに腰掛けた男性は、それを両手に持ち、包み込んで手を温めます。
「えっと、コートの裏地の張り替えを頼みたいんだが、お願いできるかな?」
「はい、よろこんで」
「生地はこれでお願いしたいんだけど」
そう言って、男性は紙袋から出した反物をローテーブルに置きます。
裏地によく使われるキュプラです。
市販のものではない事が判ります。規則正しく並んだ大きな大きな蓮の花の絵が印刷された布など、どう使ってよいのか悩みます。背景は蓮の葉があるばかり、ひょろりと伸びた茎の先に一輪の蓮の花が咲く様は綺麗ですが、裏地とは言え下手にカットして使えば緑しか見えません。花の縦のラインを生かすにはどうしたよいのでしょう。
私の戸惑いが判ったのでしょうか、男性が口を開きます。
「あ、判る? これね、オーダーメイドで印刷してもらったんだ」
嬉しそうにおっしゃいます、なるほど、オーダーメイド!
「綺麗な蓮ですね、ご自身でお描きになられたんですか?」
「嫁だよ。高校時代は美術部員で、その頃にね」
この方の奥様ならば、50年ほど前に描かれたと言う事でしょうか。十分な技巧を感じる絵です、名が通った絵描きさんならば高値が付くのではないでしょうか。
「俺の名前が蓮だから、俺だと思って描いたんだってさ」
「素敵なお話です」
同級生でしょうか。それからずっと愛を育み続けていると判って、なんとも心が弾んできます。中紅色の淡いピンクは、その恋心を表しているかのようです。
「でかい絵なのに、何処へ引っ越しても持って行って。できるならその絵をもっと身近に置けないかって思って、写真とかにもしてみたんだけどさ。簡単に布への印刷が頼めるって聞いて、面白そうだから注文してみたんだ。前は綿の生地にもっと小さく印刷してもらって、初めは結依は嫌がったくせに、出来上がりを見たら喜んであれやこれや作ってくれたんだけど」
幸せそうに微笑み話す姿に、私も笑顔になってしまいます。
「俺じゃポーチとか持てないじゃん、俺が持ち歩きたいのに。だったら俺も持てそうな物をって思って裏地にしてみたんだ」
言いながら、ローテーブルに今度はコートをお出しになります。
女性物の象牙色のチェスターコートです。そしてもう一着、ご自身がたった今着ている物を脱いで、チェスターコートと並べました。蓮さまのものは花紺青色のステンカラーコートです。
「冬になるといつも着てるものだから、これにね。同じ裏地にしたらこっそりお揃いでいいじゃん、って言ったら、特攻服みたいで嫌だって言われたけど」
ぷくんと、頬を膨らませます。端正なお顔立ちだからでしょうか、そんな子供のような仕草も決まって見えます。
「見えないからこそ、こだわると言うのは良い事だと思います」
「でしょう! よかったあ、判ってくれる人がいた!」
契約成立です。
布の巾は約90センチ、そのど真ん中に蓮は描かれています。布目の方向に絵を合わせた結果でしょう。いくつも連なる大きな蓮の花です。どこにその蓮の花を置くかで相談をしました。
その最中に、ドアに付いたベルが鳴って来客を知らせます。
入って来たかたに、先に気付いたのは蓮さまでした。
「佑葵」
お知り合いですか、そう思いそちらを見て「おや」と声が出ました。
よく似たかんばせに、親子だとすぐに判りました。お父様の精悍さを抜き、優しさを増したような感じです。
そして、よく知っているとも……常連さんでしょうか……いえ、あまりテレビを観ない私でもよく知る有名人でした。
「──田浦、佑葵」
思わずその名を呼んでいました。
高校時代からその名を馳せたストライカー。
とある噂が流れると、逃げるように日本を離れ欧州のサッカーリーグに入り活躍。幾度となく日本代表の招集がかかるも辞退、一部の熱狂的なファンからは非国民扱いされてしまっている──その噂とは、教師と生徒の間にできた、隠し子であったと──。
「有名人だな、佑葵は」
背後からの蓮さまの声に私は思わず振り返っていました、顔が引きつってしまったのが判ります。
それを見て、蓮さまは優しく微笑みました。
「佑葵の名前を知ってるなら、俺の事も判りますね」
私は小さく頷きました。
「その……佑葵さまは、母子家庭で育ったと……」
かなりぼかしました、うまく伝えることができません。
佑葵さまがぽりぽりと頬を掻いたのが判ります、蓮さまは破顔しました。
「そ。俺が、不倫の末、教え子に子供産ませた不貞教師」
言葉に似つかわしくない明るい声でおっしゃいます。
高校生の時に奥様は蓮さまを思って蓮の絵を描いた──それはつまり、その頃から関係が続いていたと言う事ですか……? それはやはり、不貞と呼ばれるべきもので……。
「大丈夫です、俺は気にしてないんで。だって俺は今でも後悔はしていない。結依も元嫁も愛してたんだ、どっちかなんて選べなかった。誰になんと言われようと、それに嘘偽りはない。元嫁が別れるって言うから別れたけど、もし元嫁が結依を認めてくれたんなら、今でも元嫁と結婚生活は続けながら、結依との関係も続けてたよ」
「……はあ」
日本が一夫多妻制であれば、この夫婦、家族も誰からも責められることはなかったのでしょうか。あるいは妾などと言うものが認められる時代ならば──。
私はそこまで真剣に誰かを好きになったことがないから判らないのかも知れません。それでもふたりの女性を同時に愛することは、蓮さまの目を見ているとできるのかも知れないと感じました。
それほどまでに自信にあふれた瞳をしています。
「まあ、それが間違ってるって言われたら、終わりなんだけど──で、佑葵ひとりなのか?」
声に私ははっとしました、少しの間「不倫」について考え込んでいたようです。
「時間潰そうってお母さん達と入った喫茶店に人が集まってきちゃってさ。桃李が怒るから逃げてきた」
「お前目当てにか。アンチ?」
「ううん、違う。写真いいですかとか、サインちょうだいとか、握手してとか」
「本当に有名人だな」
蓮さまは綺麗なお顔の目を細めて笑います、よく似た綺麗なお顔の佑葵さまは、眉間に思いきり皴を寄せました。
「笑い事じゃないよ」
なんとも可愛らしく憤慨します。
既にサッカー選手は引退され、今はヨーロッパのチームでコーチをしていると聞いています、年の頃は、私とそう変わらなかったと記憶します。
サッカーの技術もしかりですが、その甘いマスクに国内外でファンが多く、現役を退いてもなおその人気は衰えないと──なるほど、今もこちらの様子を窺おうと、数人の女性がドアやショーウィンドウからこちらを見ています。
「あの、どうぞこちらへ」
私は佑葵さまに蓮さまの隣を勧めました、コーヒーを淹れようと立ち上がったついでに、ソファーの脇の窓にかかるカーテンを閉めました。
店内の明るさが落ちました、脇にあるフロアスタンドを点けます。
「すみません」
佑葵さまは謝り、お父様の隣に座りました。
「だからわざわざ日本に戻って来なくったっていいのに」
座ってからも文句は続きます。
「仕方ないだろ、日本国籍を捨ててない俺達は、時々フランスから出ないといけないんだから」
「だからって、日本以外の場所でいいじゃん」
「正月はやっぱり日本が一番だよ」
正月の前後、ひと月ほどの滞在だそうです。
そっと紙コップのコーヒーをお出しします、佑葵さまがお礼を述べられてすぐに飲んでくださいました。
「お母さんの両親に、ひ孫も逢わせてやりたいし」
「そうだけどさ」
「で、お母さん達は平気なのか? みんなでここに来りゃいいのに」
「そんなのお母さんが嫌がるの、判るでしょ。そうやっていじめないでよ」
噂、とは言いましたが、事実、なので、やはり肩身が狭いのでしょうか。蓮さまがお持ちになったものがものであることも影響しているのかもしれません。
ここ日本では、できれば蓮さまや佑葵さまとはいたくないのかと想像できました。
「このコートは、佑葵のプレゼントなんです」
蓮さまが嬉しそうに言います。
「もう、そんな古いの、捨てればいいのに。新しいの買ってあげるよ」
佑葵さまはコーヒーを飲みながら応えます。
「古いとか、そんなのは問題じゃない。お前が俺達を思って買ってくれたのが嬉しいんじゃないか。こうして手直しすればまだまだ着られる」
一番最初の契約金で買ったのだと教えてくれました。それは20年ほど前になるはずです。確かにボタンは違う種類のものが付けられ、袖口も一度直された跡があります。少しめくってみると、前身頃の裾の方は裏地が外れかかっています。
大事に、大事に着て来られたのだと判ります。
決してお金がないわけではない、子供の気持ちが嬉しかった、だから大事に着たいのだと判ります。
隠し子だとか、そんな事は関係なく、この親子は幸せなのですね。なにより、間違いなく親子なのですから。
お子様がくれたコートに、奥様が描いた絵を印刷した布で裏地を作る。なんとも素敵です。
「──嬉しい事です、丁寧に作業させていただきます」
「ありがとう」
蓮さまが嬉しそうに微笑みます、とても大それたことをするような方には見えないのですが──いえ、おふたりの奥様を心底愛しているとおっしゃってました、それに偽りはないのでしょう。そして、今はひとつの家族だけを大事にしていらっしゃる……それでよいではないですか。
作業の台帳にお名前を頂きます、田浦蓮とあります。
お代を頂き、蓮さまはマフラーを首に巻きます。
「あ、コートはこちらだけですか? よろしければ代わりの物を」
その準備がある訳ではないですが、当座でしたら私の私物をお貸ししようと思ったのですが。
「大丈夫、このマフラーで凌げるよ」
蓮さまは来た時同様、マフラーに顔を半分まで埋めて笑顔でおっしゃいます。
「しかし、この寒さでは……」
「本当、平気。このマフラー、結依の手作りでさ、すんげーあったかいんだよ」
確かに随分大きいようです、顔を半分まで埋めてしまうのに、肩も覆えるほどに。
「でも……」
「馬鹿なの? 代わりのコートも用意しないで預けるって」
佑葵さまが大胆に責めます。
「親に馬鹿とは何だ」
「日本の寒さを舐めてるね」
言ってご自身が着ていたモッズコートの前を開け、蓮さまを背後から抱き締め包み込みます。
蓮さまは長身だと思いましたが、佑葵さまは更に数センチ大きいです。
「おいおいー。佑葵にそんな事されたくないなー」
しかし声からはまんざらでもない様子が伺えます。このおふたりは、十分親子なのだと判ります、しかも同性なのに仲の良い親子です。
「お店までだよ、早く行こ、お腹も空いた」
「そうだな。じゃあ、藤宮さん、よろしくお願いします」
「はい、承ります」
笑顔で送り出していました。とても気分が良くなっていました。
*
数分後、ショーウィンドウのガラスに、ひと組の家族が通りかかりました。
蓮さまを先頭にした家族です、後ろを歩くひとりは佑葵さまでした、小さな女の子を抱っこしています、自身のお子さんでしょうか。
その隣を歩くのは、先程名前が出た桃李さんでしょうか、少し幼く見えますので弟さんなのでしょう。お父様の血筋ですか、やはり長身です。
蓮さまは女性物のボアコートを羽織っていました、その傍らには小柄な女性が収まっています。ふたりで小さなコートを分け合っているのです。
長身の蓮さまに肩を抱かれ、見上げて控えめに微笑むのがとても美しく見えました。
女性と目を合わせ、蓮さまが愛情深い視線で見つめるさまで、そのかたが奥様だと判りました。確かに蓮さまに比べると、随分お若く見えます。
背景を知らなければ、本当に仲睦まじい家族です。いえ、知っていて尚、理想の家族像だと思います。
間違ったと言われてしまう出会いでも、今が幸せならいいじゃないか──そう思えました。
小さな商店街も綺麗な飾りつけがされています、クリスマスのイルミネーションが気分を高揚させ、そんな風に思ってしまうのでしょうか。
お渡しは三週間後の約束ですが、いつまでも小さなコートをシェアするのも大変です。まだまだ厳しい寒さが続きます、マフラーだけでは不自由もあるでしょう。1日も早くお渡しできるよう頑張ります。
今日も真心こめてお仕事いたしましょう。
終
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