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出会い
草木が夏の風に揺れていた。見渡す限りの緑だ。青野清二(せいじ)は首に掛けたタオルで汗を拭いた。
叔父夫婦が経営する牧場で働きに出て一週間になろうとしていた。清二は高校三年生で、夏休みの間、那須に来ていた。叔父夫婦はとてもよくしてくれ、清二も充実した毎日を送っている。一九三三年のことだった。
放牧していた栗毛の馬が清二に近寄ってくる。舌を出して清二の顔を舐める。
「くすぐったいな」
清二は馬の頭を撫でると、馬は頭を振って、清二にじゃれてくる。清二は動物に好かれる才能があった。牧場に働くことは天職だと思うほどだった。
東京で過ごすよりも那須の自然の中で暮らしている方が、心が豊かになった。
清二は長靴を洗い、叔父夫婦の家に入った。二階建てで、叔父夫婦とその子供二人が住んでいた。
清二は離れにある一室を与えられ、そこで寝起きしていた。六畳ほどの居室で、風鈴が風に揺れる音。縁側に腰を下ろすと、そのまま風に身を委ねたくなる。清二は作業着から浴衣に着替え、机に向かった。
畳の上に仰向けになって清二は将来について考えた。なぜ勉強しなければならないのか。清二が目指している大学は帝国大学だった。
清二は勉強が得意だったが、大学に行ってまで勉強がしたいとはどうしても思えなかった。高校を出て働きに出る自信もない。
このところは何だか、ぼんやりとして一人で考え事をしている時間が続いていた。どれかけ頭で考えても明確な答えは導き出せなかった。
勉強に身が入らなくなって清二は浴衣の帯をきつく締め、外に出た。
牧場から出ると畦道の先に平野が広がっていて、この地平の先に何もないような気がした。田園からはカエルの熱唱が聴こえる。太陽は真上にあって、清二の肌を焼くような熱さだった。
森に囲まれた場所に荘厳な門があった。レンガ造りの高い塀で囲まれていて、青木邸と書かれた表札が掛けられている。
清二が鉄格子の間から覗くと、門から一人の女性が出てきた。
「何か用かしら」
女性は言った。白い傘を差して、オレンジ色のワンピースを身にまとっていた。
「いえ、すごい家だなと思いまして」
清二は弁解するように言った。
「ここはお父様の別荘なの。あなたは那須に住んでいるの?」
「いいえ、僕は東京から夏休みの間だけ那須に来ているんです」
「奇遇ね。私も東京から静養に来たのよ」
女性は微笑んで、清二の顔を覗きこんだ。その女性の眩しさに清二は直視することが出来なかった。
「私は青木夏子よ。よろしく」
夏子は白い手袋をした手を清二に差し出した。
「青野清二です。よ、よろしく」
清二は緊張しながら、夏子と手を交わした。脆く、崩れてしまいそうなほど生気がない手だった。
「清二君は今どこにいるの」
「僕は近くの牧場でお世話になってるんです」
「そうなの。今度行ってみたいわ」
「ぜひ。可愛い動物たちがいますから」
「それは楽しみ」
清二はいてもたってもいられなく、会釈をしてその場を立ち去ろうとすると、「その浴衣似合ってるわよ」と夏子の透明な声が後ろからしてきて、清二は顔が赤くなった。
女性のことを考えてはいけない。勉強に集中しなくてはと清二は頭の中から春子の微笑を振り消そうとしたが、そのたびに春子が浮かび上がってきた。清二はこれまで恋などしたことがなかった。学生の本分は勉学にある。
清二は部屋に戻ってからも浮かない表所を浮かべて机に頬杖を突いていた。あれだけ可憐な女性を見たことがない。清二は男子校に通っていて女性には縁がなかった。鉛筆を鼻に乗せながら勉強は一向に捗らなかった。
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