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青木邸でのひととき
次の日、清二は昨日と同じ時間に青木邸の前を歩いていると、春子が庭先に咲いた向日葵にじょうろで水をやっていた。
向日葵は太陽に向かって花を開いていた。向日葵の中に佇む春子は上品でおとぎの国にいる女性に見えた。春子は白いワンピースを着て、麦わら帽子を被っている。
「あら、こんにちは」
春子が顔を上げて清二に笑顔を向けた。
「どうも。綺麗な向日葵ですね」
清二がそう言うと、春子が清二の前まで来た。
「ありがとう。収穫した向日葵の種をクッキーに入れて焼くのよ」
「へぇ、珍しいですね」
「今、クッキーを焼いているところなんだけど、よかったら食べていかない?」
春子は屋敷の方を振り返って言った。
「いえ、僕は勉強がありますから。ちょっとくらいいいじゃない。それに私に興味があって今日も訪ねて来たんじゃないの」
春子は首を傾げて言った。清二は自分の目論見がすべて春子にばれているような気がした。春子は同い年の女性というよりも面倒見の良い姉と言った方が相応しいような関係性だった。
「行きましょう」
春子は清二の手を取って、屋敷の方に歩き出した。清二もこれといって拒む理由がなかった。春子ともっと話がしたかった。
屋敷の中は高級そうなカーペットが敷かれていて、清二は見回し過ぎて首が痛くなった。壁には肖像画や壺が飾られている。
「住んでいても入ったことがない部屋があるくらいなのよ」
と春子は苦笑して、清二を案内した。
リビングに通されると、「そこに座って」と言われ、清二は王族が座っていそうなソファに腰を下ろした。天井にはシャンデリアが吊るされている。
春子は清二の向かい側に座った。白髪の執事がやって来て、ガラステーブルにティーカップに注がれた紅茶と、クック―のが乗った皿を置いて、「ごゆっくり」と一礼しリビングから出て行った。執事に品定めするように清二は見られ、改めて身分の違いを感じた。
「知り合いが誰もいなくて退屈していたからお客さんが来てくれて嬉しいわ」
春子がティーカップに口つけて言った。清二は春子の紅に目を奪われていた。
「どうかした?」
と春子が訊いてくるので、清二は慌てて首を振った。
「東京ではどこに住んでいるの?」
春子が尋ねた。会話は春子が中心で、清二は上手く会話を弾ませられない自分に苛立った。
「国分寺の方です」
「奇遇ね。私も国分寺の方なのよ。どこかですれ違っていたかもしれないわね。那須で知り合うなんて不思議だわ」
春子は清二の目を見据えて言った。清二はクッキーを一枚齧った。中に向日葵の種が入っていて、噛みごたえがあった。
「僕もこんな大きな屋敷に入って、綺麗な女性とお話ししているなんて夢のようです」
「お世辞が上手なのね」
「本当ですよ。男子校で華やかさとはかけ離れ生活を送っていましたから。それも思い切って那須に来たのがよかったのかもしれませんね」
「夏休みが終わったら帰るの?」
「はい。大学受験が控えているので」
「大学か。何を学びたいの?」
春子に言われて、言葉が詰まった。
「それが、自分でも何をしたいかが分からないんです。ただ周りに流されて勉強している気もするし。本当に自分がやりたいことがまだ見つからないんです」
「そういう年頃だものね。でも本当に清二君がやりたいことをやったほうがいいんじゃないかしら。人生は短いし、後悔することになるわ」
清二は何も答えることが出来なかった。
三十分ほど話して、清二は屋敷を出ることにした。
玄関で春子が余ったクッキーを紙袋に包んで清二に渡した。
「明日、牧場へ遊びに行ってもいいかしら」
春子が清二に尋ねた。
「ええ、ぜひ。昼間は牧場に出て作業をしているので、声を掛けてください」
「楽しみだわ。ずっと気になっていたから」
春子は少女のような笑みを見せ、清二の顔は火照った。
「それじゃあ」
と清二は玄関のドアを開けると、春子は手を振ってくれた。清二も控えめに手を振り返した。
帰りの道中でも清二は弾むように歩いていた。田舎の畦道でさえ輝いて見えた。
早く明日にならないかと清二は思っていた。さっき別れたばかりなのに春子ともう会いたい。清二は振り返って屋敷の方を見た。春子が門の前まで来て、手を振っていた。清二も大きく手を振り返した。自分のためにわざわざ門まで足を運んでくれた春子の心意気に感動していた。
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