星空の下で

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 清二が目を覚ますと隣に春子の姿はなかった。春子が持ってきたバスケットがランチマットの上に残っている。太陽は真上にあって、今年一番の暑さになりそうだった。清二は立ち上がって、体に着いた芝生を払い落とした。  清二は叔父夫婦の家に入り、冷蔵庫から搾りたての牛乳を口に流し込んだ。胃の中に昨日食べたタマゴサンドが残っているような気がして食欲はなかった。  牛舎で牛に餌をやりながらも、清二は春子のことが気になっていた。  牧場での仕事が終わると、清二は春子のバゲットを持って、青木邸を訪ねた。門は固く閉ざされていた。中から執事が出てきて、険しい顔をしている。 「お嬢様はあなたに合わせることが出来ません」  執事はきっぱりと言った。 「どうして。昨日まで仲良くしてたのに」 「朝帰りの相手はあなたですか」  執事は清二を見下ろして言った。執事は清二よりも頭一つ分背が高く、細身だった。 「あなたのような方とお嬢様を引き合わせるわけにはいきません。お嬢様をお守りするのが私の役目ですから」  執事は清二の全身を舐め回すように見て、バツの悪い表情をした。清二は質素な浴衣を着ているだけで、執事の整ったスーツと比較するといささか惨めだった。 「これ、春子さんに渡してください」 「それは。お嬢様がお父様から貰った大事なバゲット」  執事は目を大きくして言った。 「これ以上、お嬢様に近寄らないように。分かりましたね」  執事はバゲットを清二の手から強引に奪い、屋敷の中に消えて行った。清二は名残惜しそうに屋敷を見つめた。自分が春子に何かしてしまったのだろうか。  清二は肩を落として、踵を返した。田園のカエルの合唱が苛立ちを増幅させるようで、清二は「うるさい」と田んぼの中に叫び、自分で何をしているのだろうと自己嫌悪に陥った。  それから清二は春子に会うことがなく、一週間が過ぎた。清二は牧場での作業と部屋での勉強の繰り返しの日々を過ごした。机に向かっていても、頭の隅で春子のことを考えているのか、集中できなかった。畳の上に仰向けになって、天井の木目ばかり眺めていた。このままでは受験はダメだろうと清二は勘付いていた。受験などどうでもいいような気がした。今はただ春子に会いたい。それだけだった。  清二は部屋を飛び出すと、小走りで春子の屋敷に向かった。最後に訪れた時のように青木邸の門は閉まっていた。また執事が来て追い返されるだけだと思い、清二は屋敷の裏に回った。高い塀で囲まれていたのだが、傍に木が一本立っていて、清二は木に登って、そこから門まで足を延ばして、門を越えた。地面に体を打ち付け、苦悶した表情でのたうち回った。執事にばれないように声を抑えた。もはやただの強盗と変わらないじゃないかと思うと清二はふっと鼻で笑った。  窓から部屋の中を覗くと広い部屋が見え、白いベッドに春子が入り、本を読んでいた。久しぶりに見た春子はさらに美しく見えた。だが、前よりも頼りない印象を与えた。春子は咳き込み、ベッドの横にあった水を飲んだ。清二は窓を小さく叩いた。春子は窓の方に目をやって、清二と目があった。春子は驚いたような顔をして、窓まで歩み寄り、 「どうして」と窓越しに言った。「開けて」と清二は言った。春子は窓を開けると、強い風が部屋に入り込み、せき込んだ。 「大丈夫?」  清二は声を掛ける。 「大丈夫よ。どうやって入ったの」 「裏の木に登ってきたのさ」 「あなたって意外と大胆なのね」 「どうしても会いたかったから」 「そんなに私に会いたかったの?」 「もちろん。急にいなくなるなんて寂しいじゃないか」 「ごめんなさい。とりあえず上がって」 「窓から失礼するよ」  と清二は言って、窓に足を掛けて、中に転がるようにして入った。その姿を見て春子は静かに笑った。  清二は春子の体を支えて、ベッドに寝かせた。ベッドの傍にある椅子に清二は座り、春子を眺めた。弱っている春子の目は儚くて、思わず手を握ってしまった。 「私ね。病気なの」  春子が小さな声で言った。 「そんなに悪い病気なの?」 「来月、東京の大きな病院で手術することになっているの。助かるかどうかは分からない」 「そんな。気が付かないでごめん」 「いいの。清二君と会えて楽しかった。思い残すこともないわね」 「もっと春子さんと会って話がしたいよ」 「私も同じことを思ってる。でも病気には敵わないよ」  清二の心にぽっかりと穴が開いて、体が重く引きずられているような感覚だった。 「那須に来てよかった。天国のようだった」 「また来ればいいじゃないか」 「そうね。もし病気が治ったらまた会ってよね」 「待ってるよ」 「受験頑張ってね。応援してるから」 「春子さんの病気を知って、集中できるわけない」 「そうだよね。だから秘密にしてたの。清二君に迷惑掛けたくないから、部屋に籠ってたのに、壁を乗り越えてやってくるなんて」  春子は呆れたように清二を見た。清二は照れて、春子と目を逸らした。  部屋のドアがノックされ、外から執事の声が聴こえた。 「お嬢様、入ってよろしいでしょうか」 「まずいわ。隠れて」  春子は慌てたそぶりでそう言って、清二をベッドの中に引き入れた。春子は布団に下半身を入れた状態で背をベッドの壁につけていた。清二は布団の中で春子の足に抱き着いてじっとしている。 「お水をお持ちしました」  と執事が言って、水を取り替えているようだった。「ありがとう」と平静を装う春子の声が聴こえてくる。 「何か膨らんでいるようですね」  執事が声を落として言った。清二はドキリとたが、動くわけにはいかなかった。 「気のせいよ」  と春子が言うと、「そうですか」と疑問を抱えたままの声音で執事が言って、部屋のドアを閉めた。 「いいわよ」  春子がそう言って、布団を叩いた。清二は布団から顔を出して、春子を見つめた。今度は清二の方から春子にキスをした。 「好きだよ、春子さん」 「私もよ。清二君」  春子が清二を抱きしめた。清二は春子の胸で安らかに目を閉じた。春子に頭を撫でられると天国にいるようだった。  春子と言葉は交わさずにお互いに体を寄せ合った。清二にとってこの上ない幸福な時間であり、このまま時間が止まればいいのにと思った瞬間でもあった。 窓の外は暗み始めていた。 「もう行かなくちゃ」  清二は起き上がった。 「まだここにいればいいじゃない」 「ずっとそばにいると今日の思い出が霞んでしまいそうで」 「ひどいわ。自分勝手よ」 「僕だって春子さんのそばにずっといられるわけじゃないんだ」 「約束したのに。傍にいるって」  春子は泣きながら、枕で清二を叩いた。ベッドから出て、ドアに足を掛けた。 「それじゃあ」  清二が言うと、「明日の正午の電車で東京に帰るの。見送りに来てよ」と春子が清二の背中に声を掛けた。 「どうかな」  清二は不機嫌そうに答えるだけだった。 「最低な男。もう嫌いよ。会いたくもない」  春子はそう叫ぶと、部屋のドアが開いて、執事が血相を変えて入って来た。 「どうかしましたか」  清二は振り返ると執事と目が合い、執事が小走りで向かって来るのが分かると、窓を飛び越えて、走り去った。 「みんな私の元から離れていくのね」  春子は目元を拭った。
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