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「――本気ですか」
「もちろん」
「その会社の素性が何かをご承知の上で、仰有っておられるのでしょうが……」
裏社会を熟知する者であれば誰しもが避けて通りたい、華僑系マフィアの根城のひとつであるビル。
そこに、官憲がついにメスを入れようというのだろうか。
しかし東京はジャンル問わず、世界的な催しが多い都市である。下手なタイミングで介入すれば表裏の勢力バランスが崩れ、治安にも大きく関わってくる。だからこそどの組織も不用意な手出しは出来なかった。半年後に大規模なスポーツ大会が控えている今は当局としてはまだ静観を貫きたいはず、だのになぜ――さしもの木下も戸惑ったが、倉本は眉ひとつ動かさず、むしろ穏やかな微笑さえ浮かべている。
前回も、そうだった。
彼が依頼してきたのは、暴力団絡みの麻薬取引に関する情報収集。高純度かつ捌かれる量もトータル数十キロ単位の、すなわち十桁の金が動く危険な案件であった。倉本の代理人にデータを渡した二ヶ月後、くだんの暴力団は司法組織の捜索が立て続けに入り、自滅の形で消えた。
この捜査劇には関東最大の勢力を誇る龍世会も一枚噛んでいるという噂も耳にしたが、結末を知ってはじめて、命すら危うい任務への恐れを微塵も見せなかった倉本に木下は舌を巻いたものだ。
身に備わった胆力と言うべきなのか、それとも彼をそうさせる理由が他にあるのか――カクテルに濡れた口元の曲線から、喉、鎖骨へと視線を滑らせてみた。その白皙はつい今しがたまで誰かの唇が触れていたかのような、どこか生々しい艶を漂わせている。
この艶に同性の匂いを嗅ぎとれないほど、勘が悪いつもりはない。
生来の嗜癖ではないにしろ、男と肌を重ねたことがある人間だと八年前から察していた。それがただの遊びや軽率によるものではないことも。彼に纏いついた気配は恋愛と表現するには生易しすぎる、まさに狂気と呼んでもよいくらいの妄執であったからだ。
倉本ほどの人間を捕えて離さない相手が、そこらの凡俗の存在であろうはずがない。その謎の男こそが倉本の生き方に大きく影響を及ぼしているであろうことを、木下は改めて確信した。
「――君への報酬は望みの額を払わせてもらう。振込先は以前と同じで良いのかな」
「結構です。それを受け取るときに俺の命があれば、ですが……もし首が繋がっていれば、ありがたく頂戴しましょう」
割った氷をコリントグラスに放り、自分もウィスキーを入れて呷る。
生の酒が喉を焼いても、思考は酔いをかわして冴えたまま。
倉本が己のグラスを弄びながら呟いた。
「前もそう云ったね、君は。そして私の期待以上の成果を叩き出してくれた」
「あの時はあの時、今回は今回です。貴方からも幸運を祈っていて下さい」
「もちろん、そうさせてもらう」
木下はことさら軽口に紛らわせ、おどけた手つきでグラスを持ち上げたが、同じくグラスを持って断言する倉本の表情もまなざしも真剣そのもので、心の底まで射抜かれそうになる。
――この人の前では、どうにも調子が狂うな。俺としたことが。
依頼人をいちいち詮索しない自分をここまで拘らせ、裏の仕事を引き受けさせてしまう独特の力は天性のものか。誰が相手でも深入りせず距離を保ってきたからこそ、修羅の世界で生き延びて来られたというのに。
木下が首を軽く振って心を鎮めようとしたとき、街路から遠いさんざめきが聞こえてきた。花火が終わったらしかった。
倉本はふっとドアに横目を走らせると、グラスを最後まで飲み干してサングラスを掛けた。
「もう終わったようだな。私はこれで――次は一ヶ月後に」
「貴方が? それとも代理人の方ですか」
「私が来るつもりだ」
「了解いたしました。お待ちしております」
「ありがとう。美味しかったよ」
カウンターにさらりと一万を置いて立ち上がり、踵を返した靭やかな背を、野暮と承知しながら呼び止める。
「倉本様」
僅かに振り返った白い横顔から、感情は読み取れない。ただ、赤みを仄かに帯びたそのくちびるは柔らかく綻んでいた。
「次に来たときも、君と一緒に美味い酒を飲みたいんだ。取っておいてくれ」
「――ありがとうございます」
木下は頭を深く下げた。誠実なまでのこの信頼に報いないようでは名折れである。ネオンと雑踏の彼方へ去る姿をドアが完全に閉まるまで見送ると、彼のために出来得る限りの力を尽くそうと密かに決意したのだったが。
倉本が出て行ってから十分ほど経っただろうか。
快い余韻を惜しみながらカウンターを綺麗に片づけ、常連グループがそろそろ到着するはずと準備していると、男物の下駄の音がした。歯切れの良い響きは力強く、若い男のそれだとすぐに見当がついた。
「―――!」
藍の浴衣姿を一瞥した瞬間、木下は挨拶も忘れて愕然と目を見開いた。
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