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彫りの深い端整な貌、そして男性として恵まれ尽くした長身が帯びる白刃の気魄、どう足掻こうともそれしかない名前が脳裏に即座に閃く。
何故ここにこの男が突然来るのか、いったい自分に何の用があるというのか。
男は木下の警戒を感じたか口角を薄く歪めたが、その夜闇を帯びた嗤いはこれまで見てきたどんなそれよりも酷薄なもので、頭から氷塊を浴びせられたかのように背筋がぞっとした。
「……いらっしゃいませ」
こちらとて伊達に裏社会で生きてはいない。
流しに突いた両の手を握り締めながらも遅れて告げると、男は愉快そうに肩を揺らして笑った。低いが予想よりもはるかに響きのよい声質だった。
「こういう場合は名乗った方が親切なのか、"トール"」
木下は硬い声で跳ね返すように答えた。
「わざわざお名乗りいただかずとも、貴方様のことは充分すぎるほど存じ上げております、榊様。そのような方がこんなうらぶれた店に何の御用でしょうか」
「大上段に構える必要はない。俺の連れを探しているだけだ」
「お連れ様……? ご承知の通り、界隈は花火大会があったばかりでしてようやく出足が戻り始めたばかりです。そのような方はおいでではございません」
一般客の店にヤクザの居座りはご免だと匂わせると、榊は特段怒りもせず眦でちらと木下を流し見て、そのようだなと言った。
「一足違いだったか。邪魔したな」
「とんでもない。お役に立てず失礼いたしました」
榊は時間の無駄は好まないとばかり、筋者にありがちな難癖を押し付けることもなくあっさりと立ち去った。
真剣を構え合っていたかのような緊迫感が、店内から一気に抜けた。ほんの数分の出来事が、一時間の長さに思えた。
ホワイトシャツの下でいきなり汗が噴き出すのを感じ、木下は押し殺した息を吐いた。開店中でなければ椅子に座りこんでいたかもしれない。
東山会三代目の襲名と同時に龍世会若頭を継いだ極道、榊孝一郎。
龍世会会長峯元の寵と期待を裏切らぬ才智によってまたたく間に伸し上がり、次代はおそらく彼がと目される男。
あれが、そうなのか――遠目に見知ってはいたが、鋭利な迫力と存在感、はっとするほど整った風采は間近に接してみれば壮絶としか表現の仕様がなかった。
もともと優れた体格ではあるが、若さに似合わぬ浴衣の粋な着こなしと足捌きには、商売柄役者を見慣れている木下ですら感嘆を覚えた。カリスマには容姿と立居振舞いも確実に影響するもの、それに加えてあの合理的で冷徹な性格と来れば、彼の今の地位はむしろ当然とさえ言えよう。
「……まったく、今日はなんて日なんだ」
他人事のように小声でぼやいた直後に、マスター!と聞き慣れた甲高い声が飛び込んできた。
「ちょっとマスター、あれ誰!?」
若い女性二人、男性一人の常連三人組が顔を並べて一斉に入ってくる。木下はほっと頬を綻ばせた。
「やあ、アヤちゃんにレイちゃん、雄くん、いらっしゃい。暑かったでしょう、花火は楽しかったかな」
「もうめっちゃ人が多くて暑くて死にそうだったけどキレーだったよ、ってそうじゃないの、さっきのイケメン!」
「イケメン? 何の事だいレイちゃん」
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