闇夜

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 気温も天候も気まぐれな、日本の盛夏。  週末の都内でも、猛暑を引きずる熱帯夜を迎えようとしていた。    夕方からの花火大会に観客が流れた影響で、新宿のメインから外れた街路は人影もまばらである。  しかしそんな閑散をこそ狙って現れる物好きもいるもので、開店一時間後に扉が動いたとき、木下はやはりと思っただけだった。 「いらっしゃいませ」  冷房がよく効いたがらんどうの店内に、ジャズを掻き分ける革靴の音が数歩。  酒棚の前でグラスを磨きながら木下は視線を上げ――ほんの一瞬、呼吸を止めた。  心臓が高鳴った。  カウンターにスツールが数脚あるきりのごく小さなバー、『swallow』。新宿に無数に存在するありふれた店のひとつに過ぎないが、二十代のときから十年以上経営してそれなりに入りは多く、木下は大抵の客に動じたりはしない。  だが、今回は動揺せざるを得なかった。  八年前、ただ一度だけ。拭い去れぬ記憶を残した男が、そこに佇んでいたからだ。  猛暑にやられて白昼夢でも見ているのかと訝しんだが、男はサングラスを外しながらスツールに腰を下ろし、口を開いた。 「今日の大井競馬は、どの馬が話題だったのかな」  物静かな声が綴ったのはあの時と同じ、取引の符丁。  これは夢ではないようだ。冷静さを取り戻した木下はおしぼりをカウンターに乗せた。 「お客さん、競馬にお詳しくないようですね。JRAと違って、TCKは土曜日は開催されないんですよ」 「ああ……そうだったね。うっかりしていたよ」  取引が、成立した。  真正面から見つめ合った。ジャズのトランペットの音が遠く途切れた。  八年の長さを佇まいに感じることはあっても、凛とした清冽な眼差しは少しも変わっていない。この眼差しこそが、決して色褪せることのない、異様なまでの存在感を木下の脳裏に残していた理由に他ならなかった。 「倉本様と仰有いましたか。ちょうど八年前にもお越しいただきましたね」  相手が素直に瞠目した。 「覚えていてくれたのか」 「たとえ何年前のことであっても、店に来て下さったお客様のお顔を忘れることはありません――以前と同じでよろしいですか」 「ありがとう。任せるよ」  "倉本"と名乗るこの男は以前、酒はあまり好まないと語っていた。アルコールに弱いからではなく、酔えないからだと。  当時と同じくジンフィズの配合をソフトドリンク寄りに仕上げた品を供すると、男はかるく頷いて唇を付けた。グラスの壁面に氷が当たる音が、会話のない空間に響く。  木下はアイスピックで漫然と氷を処理しながら、カウンター越しにさり気なく倉本を観察した。    染めていない髪が、暖色のライトを反射して鈍く輝いている。  カットされたまま軽く整えているだけの髪型も、黒麻のジャケットにVネックの白いカットソー、細身のチノパンツという服装も、清潔ではあるが非常に地味で、昔と同じく虚飾に興味のない日常が滲み出ている。  だが、シンプルであるからこそ本人の意図とは逆に、優れた容姿をより際立たせてしまっているのは皮肉な話だ。  銀の月光を映したように美しく、気品ある面差し。  程よく筋肉を帯びた肢体、すっきりと伸びた背筋。  陽の当たる上流階級の道を歩むべき者でありながら、どこか謎めいた陰影を帯び、けれどその陰に他者が触れることを決して許さない聡明な双眸。  店に辿り着くまでに無数に注がれたであろう不躾な視線も、この誇り高い横顔の前には力を失ったに違いない。    倉本という名が偽りであることくらい疾うに理解している。しかし本名を訊ねたことはない。何故己の腕を欲しがるのか、どういう立場に在るかも知りはしない。  バーテンダー稼業のかたわら、天才的な裏の情報屋"Thor(トール)"として名を馳せる木下は、依頼が裏社会からであろうが刑事からであろうが、請け負いたい仕事のみを選んで引き受けてきた。その経験上、倉本は官憲の人間だと見当は付いていた。良くも悪くも贅に慣れた育ちと欲しがる情報のレベル、自分と同年代であることからして、大卒のキャリア系であろうことも。八年前に比すると司法側独特の雰囲気は減っているが、場数をこなすことで気配を抑える術を会得したのだろう。 「昔と少しも変わらない。君の酒は美味しいよ」  心底からと取れる賛辞に目で応えると、木下は促した。 「そろそろ、本題のお話を……花火大会が終わったら一気に混雑しますので」 「そうだな」  倉本は半ばまで干したグラスを置き、池袋の外れに存在する会社の名を綴った。そこに出入りしている人間の名前や所属、物流を含めた最新情報が一ヶ月分欲しい、と。まるでコンビニへの使いを頼むかの如く、気軽な語調で。  意外さのあまり、アイスピックを握る手が自然と止まった。
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