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◆
ヤスの助言を受けて調べたところ、地元の空港まで飛んでいる飛行機の場合は、当日の0時からインターネットで予約できるチケットだった。
そのため私は、日付が変わると同時に航空会社のホームページで空席を確認し、予約が取れたら朝一番の電車で空港に向かう作戦をとることにした。
ハガキが届いてから数日はお盆の帰省シーズンのために空席がない状態だったが、1週間もしないうちにピークは過ぎ、予約に成功したのだった。
キャリーバッグを脚の間に挟んで、電車に揺られる。
機内に持ち込めるサイズのそれには、最低限の着替え、身だしなみ品、スマホの充電器、それから彼女の家を訪ねるための小綺麗な服を詰め込んである。
親に「帰省、今日になったから」とメッセージを送って、窓の外に目を遣った。普段は寝ているこの時間でも、外はこんなに明るいのだなとぼんやりと考えた。
私の地元は、よくあるド田舎である。おそらく日本の人口の構成比で言えば少数派ではあるが、面積比で言えば実は多数派なのではないかと思っている。どれくらい鄙びた場所かというと、電車はなく、車は1人1台程度持っており、そこそこの大学に進学したいと思うならば離れた街で下宿をしてそれなりの偏差値の高校に通うのが一般的なのだ。
そういった地域であるため、平日は街で暮らし、週末に時々実家へ戻る生活を高校時代からしていた。
そして、内地の大学という、更に地元との交通の便が悪いところに進学すると決めたときから、少なくとも大学在学中は帰省するつもりはなかった。唯一、成人式のときだけは親に相当説得されて帰省したが、その一度きりであった。
往路と復路を別々に数えても両手を超えないくらいしか利用したことのない空港ではあったが、どうにか搭乗口まで迷わずに辿り着くことができた。
近くの椅子に腰を掛け、上の方にあるモニターを見上げる。地元の空港の名前と出発時刻が表示されているのを確認し、ようやく「帰省する」という実感が湧いてきた。
手回り品用の小さなバッグから訃報のハガキを取り出し、もう何度も見た文面を再び見る。針が心の表面に触れるような、ひんやりとした心地がする。
「……どうして」
どうして、死んでしまったのか。
無味乾燥とした「かねてより病気療養中のところ」という文章を指でなぞる。
たしかに彼女は病弱であったらしい。私といるときに体が弱そうな素振り自体を見せたことはないが、彼女の口から零れた愚痴を思い出すに、彼女の住む家はまるで現代のサナトリウムのようであった。
家庭の事情で中学卒業後に引っ越してきたのだと言っていた。
彼女の家は小高い丘にある、田舎に不釣り合いなほどに整った洋館だ。私の幼い頃は手入れのされていない空き家だったため、皆で「お化け屋敷」と呼んでいた。中学1年生の夏に、なんだか最近綺麗になったらしいと噂になったために同級生たちと見に行って、そこで彼女に出会ったのだ。
正確には、噂通り綺麗になっていることに驚いて騒いでいたら、管理人のようなおじさんに叱られて追い返された。その逃げる際に窓の向こうの白いスカート、亜麻色の髪、物憂げな佇まいが、目に入ってきたのだった。
私の脳裏に刻まれた彼女の美しい姿は、思い出す度にその刻みを深めてゆき、ついに私の足を再度洋館へと向かわせた。
そして静かに室内を覗き見て目が合った彼女は、初めて見たときと同じように美しく、初めて見たときには気付かなかったが意志の強そうな眼差しをしていた。
その美に引き寄せられる死神を撥ね除ける、そういう強さが感じられたのだ。
◆
機体が離陸し、旋回する。
傾いた機体の窓から、大都会が少しずつ離れていくのが見える。
彼女は、中学まではこちらにいたらしい。昔のことを多く聞いた訳ではないため、大したことは知らない。私が知っている彼女は、地元で会って話した彼女だけだ。
高校や大学や就職はどうしていたのか分からない。私が彼女の家を訪れたときには常に在宅していた。引きこもりと言うには快活としていて、彼女が言うには「お父さんが心配性」なのだそうだ。
彼女の家では、管理人のようなおじさんと、家政婦のようなおばさんを時々見かけた。彼女の両親を家で見たことはない。
そのような人間関係と、新旧混じった大量の本、それから「1日の使用時間に制限がある」というパソコン。それが私の知る、彼女の置かれた環境だ。
私が彼女と話す場所は、彼女の自室、中庭、暖炉のあるリビングのいずれかだった。大抵は彼女が好き勝手に話し、私は質問に答えたりしながら彼女の写真を撮っていた。話題には芸能人や流行の話など一切なく、代わりに日本文学や海外文学、化学や物理学、天文学や哲学に関して、雑多に話していた。
いつだったか、魂とは何なのかについて話していたことも覚えている。
――あなたは「魂」とは何だと思う? あるいは「精神」でも「心」でもいいわ。思うところを好きに言ってもらえる?
話の流れなんてあったものではない唐突な質問は、その頃に彼女が読んでいた小説なり実用書なりを受けてだったように思う。
漠然とした問いかけに、私は頭を悩ませながら答えるのだ。
――えっと、目に見えないもの、ですかね……。
――うんうん、それから?
――それから……体が死んでそこに残った魂が幽霊、とか? 火の玉的な。
――火の玉はリンの発火だから、どちらかというと物質的ね。いえ、火自体は物質ではなく現象? 体が死んでも魂が残るというのは、人から物質性が限りなく失われることだと考えてもいいかも。
私の回答を聞いた彼女はふむと考え込み、ややしばらくの後ににっこりと笑って言ったのだ。
――人を構成する要素から固体も液体も気体も取り除いて、それでも残ったものを「魂」と呼ぶのなら、「魂」は電気という現象だと面白いわね。
歌うような彼女の言葉が耳朶を打ち、私の耳も目も心も彼女から逸らせなくなる。
――もし魂が電気的な存在ならば、人は電脳の海を泳ぐことができるのではないかしら?
内地の大学に進学するにあたって、地元そのものには執着はなかったが、唯一彼女から遠く離れることだけが胸を締め付けた。
合格したことを彼女に伝えると、私以上に喜んでくれた。何の憂いもなく、悲しみもなく、揺らぎのない瞳で笑いかけてきて、私は泣きそうになった。もしかすると泣いていたかもしれない。
――そうだ、少し待っていて。
彼女はそう言うと、綺麗な紙に何かを書き付けて渡してきた。端正な文字で綴られているのは、郵便番号、住所、そして彼女の氏名。
――生活が落ち着いたら、手紙をくれるといいわ。メールだと読みたいときに読めないかもしれないから、手紙で、ね。
この紙は、私と彼女を繋ぐものなのだ。私は勢い良く頷いて言った。
――はい! 頑張って書きますね!
――ふふっ、そんなに気張って、可笑しいの。
クスクスと笑う記憶の中の彼女の声にかぶって、飛行機の着陸のアナウンスが聞こえる。
どうやら、いつの間にか眠っていたらしい。私は頭上の手荷物入れからキャリーバッグを取り出し、空港へと降り立った。
地元の夏のひんやりとした風が、心の隙間を吹き抜けていくように感じた。
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