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「こんっの、泥棒ネコぉおおおおお!!!」 「ひぃいいいい!」  おれの隣を歩いていた男が悲鳴を上げた。どこで手に入れたのだろうと思うくらいに、大きな包丁を手に持った美人が、長い髪を振り乱しながらこちらへと走ってくる。 「ネコって、そりゃあネコ側だけど……」  泥棒ネコとは、なんだ。思わずぼやいていると、男――おれの彼氏がそっと、離れる気配がした。 「なあ。もしかして、あの女の人ってあんたの知り合い?」  付き合ってくれ、と散々バーでおれに泣きついてきた男に、とうとうほだされたのが一か月ほど前。顔はそんなに好みではなかったけれど、繁華街の裏道で無理やり口づけてきた少し強引なところが、ちょっといいかな、なんて思ったのがお付き合いの始まりだった。 「あっ、おい!!」  おれを置いて、男が全速力で走り去っていく。油断して、包丁を持った美人に背中を見せたのが、運の尽きだった。冷たさと共に襲ってきた衝撃で、声が出ない。 (泥棒ネコって、まさか……おれぇ……?)  何とか逃げようともがいても、身体がうまく動かせなくなっていた。返せ、と耳元で女の人が泣き喚いている。情けない男の悲鳴と、やめろ、離れろと言う複数の声。 「わたしの旦那を、返せぇええええ!!!」  ……だんな? 考え事をしたいのに、もう頭が回らない。そのまま、おれの思考はブラックアウトして――今に、至る。 *** 「……ちょっと待て。っていうことは、おれが彼氏だと思っていたあの男は――」 「そう。妻子持ち」  最悪だ。おれは、頭を抱えて呻いた。  女の人に包丁で襲われた衝撃から目を覚ますと、目の前には可愛らしい生き物がいた。周囲は薄暗く、てっきり病院かと思ったのに病室――というわけではないらしい。あえていうなら、何もない場所だった。痛くもないし、寒くもない。おれと、可愛い生き物、それだけだ。生き物は、小さな子どものドラゴンに見えた。灰色がかっているように見えるが、白いのかもしれない。薄紫色の瞳はくりっとしていて、ひな鳥のようだ。空も飛べそうな、膜を張った大きな翼と、長い尾が時折、ぴょこっと動く。  だが、このコドモドラゴンが話す内容は、えぐかった。 「じゃあ、泥棒ネコっていうのは……」 「うん。君のこと」  小学生男子くらいに聞こえる子どもの声で、コドモドラゴンがさらっと答える。おれを襲った事件。包丁女の狙いは、最初からおれだった。コドモドラゴンの言うことには、おれに泣きながら付き合ってくれと、ひっついてきたあの男は既婚者だったらしい。 (最低最悪だ……)  人のモラルから逸脱する数々の悪事の中でも、不倫は特に許せない事の一つだ。おれの父親が、母親に不倫されてどんな末路を辿ったか――不倫をした側は、された側にならなければずっとその罪深さを分からないままだから、本当に質が悪い。 「いや、待て。待てよ。おれ、まだあいつとは清いお付き合いだったし、デート二回目だったぞ? そんないきなり突撃されるなんて、おかしいだろ」 「そうそう、知ってるー。なんと! あの男には、ほんめいの彼女がいました!」  なぜ知っている。そして、ふわっとしたコドモドラゴンの口から、また新たな情報が飛び出した。情報量が一気に増え、おれは頭を抱えた。おれに泣きながら付き合ってくれと言った男。実は妻子持ちで、更に本命の彼女がいた、と。 「君は、ほんめいを隠すための、フェイク、みたいな?」  きゅるん、とした可愛らしい目で小首を傾げながら、コドモドラゴンがおれに止めを刺してきた。まあ、悔しいが男のフェイク作戦は成功したんだろう。現におれは、刺されたのだから。 「怖いけど、聞いておく。おれって、どうなったの?」 「……アオ・ハナブサハ、シンダ」  なんでそこだけ、カタコトになるんだ。ツッコミたくなる気持ちを抑えて、おれは息を吐き出した。やっぱりなあ、とは思う。相当痛かったし、途切れていく意識の中でこれはもうダメかも、と思った。これで死んでいなかったら、自分すごいなと考えていたのに。  それにしても、二十歳の誕生日に殺されるって、どれだけ不幸なのだろう。なんとなく二十歳を越えて生きている自分は想像つかないな、とは思っていたが。ぴったりその日に、何も殺されなくても。自分のことなのに、悲しいとか辛い、という気持ちは、何故かなかった。 「じゃあ、お前は誰なんだ? おれ、ドラゴンなんてゲームでしか見たことなかったんだけど……あの世には、お前みたいな天使系ドラゴンが、うじゃうじゃいるわけ?」  お迎えは天使じゃなかったが、コドモドラゴンは言うことがえぐくても、見た目はとにかく可愛い。おれが問いかけると、途端にコドモドラゴンはしょんぼりとなった。 「実は、僕はアオの守り神みたいなもので……」 「あー……なんか……死んじゃって、ごめん?」  守り神なんてすごいのが憑いていたのか。そりゃあ守ろうとしていた相手が殺されていたら、だめだよな。しっかり守って欲しかったって文句を言っても許される気はしたが、あまりにもコドモドラゴンの哀しみが満ち溢れ出したので、成人を迎えたばかりの大人なおれは、空気を読んだ。 「というわけで、やり直しさせてほしいの」 「……はい? 意味が分からないぞ」  あっさりやり直しをしようと、おれの守護神さまがのたまった。なにをどう、やり直すというのか。 「新しい世界で、また人生を始めるってこと」  おお、生まれ変わるってことか。  随分都合の良い夢にも思えたが、夢でもいい、乗ってみようと軽く考え、おれは頷き返す。 「ちなみに、なにかリクエストはある? どこの世界に行くかはもう確定済みだから、そこは変えられないけど」  確定って、子どもなのに難しい言葉を使うな。意外と年齢いってたりして、と疑ってからおれは悩んだ。多少リクエストできるのなら、今生では体験できなかったようなことは、してみたい。 「そうだなあ。おれだけを可愛がってくれる恋人は必須。マルチ商法に勧誘したり、連帯保証人のサイン、ぼこぼこにしながら書かせようとしない、優しい年上の男の人を希望したい。あ、兄弟もほしいな。時々ケンカとかしてさ、でも一緒に冒険とか、寝たりとかしちゃう子ども時代とかも憧れる。ダチもさ、おれを自分の借金のために、AVの撮影現場に置き去りにしないような、律儀な奴が良い」 「……なんか、君の境遇を聞いてるだけで涙が出そう」  コドモドラゴンの目がうるっとなる。確かに、一つ一つはきつい思い出だ。そういう世界から、消えることができる――今のおれは、そんな風に思っているのかもしれない。子ども相手に言うことじゃなかったな、と気づいてから、おれはコドモドラゴンの前で膝をつくと、思ったよりも温かなその額を撫でてみた。 「まあ、ほんっとロクでもない人生だったからさ。無理やり命が助からなくて、逆に良かったかも。お前も、気にするなよ」  コドモドラゴンは、無言だった。  無言のまま、尾を大きく振り上げると、コドモドラゴンが吼える。耳の鼓膜が破れそうな、それはすごい声だ。 「お、おい……?」  これはもう、何か儀式が始まっているのだろうか。さっきから思っていたことだが、もう少しちゃんとした説明が、ほしい。カッ、とコドモドラゴンが目を見開き、瞳孔が割れた。驚いて立ち上がった瞬間――おれは、コドモドラゴンの長い尾で、思いっきり弾き飛ばされたのだった。 ※作中のコドモドラゴンは子どもドラゴンをカタカナ表記にしています。 (コモドドラゴンをもじっています)
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