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02
「痛っ!!」
飛び上がって更に襲った痛みに、おれは悲鳴を上げた。尻尾でぶっ叩かれたのは背中のはずだが、何故か尻穴のあたりも痛いし腕も痛い、全身がとにかく痛む。
(おい、まさか……)
生き返っちゃいました、というパターンか。まあ、現実路線だな、とおれが嘆息したところで、バタバタと足音がした。
「フィオ殿下?!」
荒々しく扉が開く音。男が、誰かの名前を呼んでいる。痛みに呻いていたおれを、部屋に入ってきた男が強く抱きしめてきた。
「い、いたい……」
こんなきつい抱擁は初めてで、嬉しいよりも体が悲鳴を上げる。おれが呻くと、「失礼しました!」と言って抱きついてきた男が離れた。
「フィオ殿下。良かった……医師殿が、もう目を覚まされることはないだろうと……私は……!」
震える男の大きな手が、おれの両手を握ってきた。ようやく相手を見る余裕が少しできて、おれは目を丸くした。
「……あんた、誰?」
おれの手を握りしめている男は、甲冑はつけていないものの、西洋の騎士といった出で立ちだ。おれの好みからは多少外れるが、金色の長い髪を一つに結っていて、鼻筋が通ったまさしく美青年。見覚えは、まったくない。相手の名前を尋ねると、相手はその青い瞳を丸くした。
「殿下? ご冗談でしょうか。お珍しい」
さっきからこの男が『殿下』と呼んでいるのは、まさかおれのことか。訳が分からないが、とりあえず男の手から力が緩んだことに気づいて、そっと自分の手を引き抜いた。
「殿下、殿下って。誰かと間違えているよ」
おれ自身も風邪をひいているのか、喉が痛くて声が枯れている。騎士風の美青年は少しの間かたまっていたが、ようやくおれから少し距離を取ると立ち上がった。ふかふかとした寝台が名残惜しいが、自分も立とうとして――やはり腰のあたりが痛くて失敗した。男は無言でおれの体勢を横にして、寝台に横たわらせる。その力の強さに、抗えない。
薄い毛布をかけ終えたところで、男は再びおれの近くで膝をついた。
「……私のことを、覚えていないのですか?」
良い声だな、と思うが、その声にも聞き覚えはない。……いや、懐かしいような感じは、ほんの少しだけある。けれど、知らない顔だし、知らない声だ。「分からない」と答えてから、おれはゆっくりと視線をめぐらせて部屋の中を確認した。窓辺には薄いカーテンがかけられていて、外はまだ明るいことが分かる。窓の近くには小さいけれど、凝ったデザインの机が一つ置かれている。よく見ると、天井と壁との境目や、至る所に細やかな装飾が巡らされていて、どこか高級リゾートホテルにでもいるのだろうか、と思わせた。
「なあ、ここってどこなんだろう。腰とかすごい痛いし、なにが何だか……」
腰が痛いのは、あのコドモドラゴンが尻尾で思いっきり人をぶん殴ったから、という気もするが。尻の辺りはよく濡らしもしないで男のモノを入れられた時のような、裂けてしまった嫌な痛みがある。自分の手を見てから、おれはぎょっとした。
「なにこれ。爪とか、ぼろぼろじゃん。手首も片方が包帯ぐるぐるで、もう片方は青黒くなっているし……」
まるで、監禁されていたような。それに気づいて、おれは身をかたくした。親切めいた言葉かけをしておいて、もしかして目の前にいる騎士風コスプレ男が、おれに何かしたのではないだろうか。そういう時に限って、男は黙ったまま何も答えてくれない。どうしよう、と焦り始めたおれの耳に、扉をノックする音がした。おれも男も答えなかったが、勝手に扉は開いた。
「血相変えて飛び出していって、どうされたのです!」
今度は女性の声だ。おれの視界に、体躯の良い女性の姿が映り込んできた。起きているおれに気づくと、口元に手をあて、驚いた顔をしている。殿下、と。歩みを早めて近づいてきた彼女を、騎士風の男が引き止めた。
「……殿下は、記憶を失くされている。ご自身のことも、私のことも……まったく分からないご様子だ」
「そんな……。きっと、酷いことに巻き込まれて混乱されているだけです!」
信じられない、と彼女が言う。男の声は、こちらが罪悪感を覚えるほどに悲痛に満ちていた。
「……すまない、頭を冷やして来る。殿下のことを頼んだ」
顔を俯けたまま、男が部屋から出て行った。水が欲しいな、と思い視線を動かしていると、彼女は「お水でしょうか?」と気づいてくれて、机の上から水差しを持ってきてくれた。
「ありがとうございます」
「いいえ。お気になさらないでください、殿下。……私のことも、記憶にはありませんか?」
おれに水を渡してくれた女性は、茶色の長い髪を、やはり後ろで一本に結わえていた。瞳の色は、髪と同じ茶色。さっきの男ほどではないけれど、おれが何も分かっていないことを悲しんでいる。だが、いくら考えても、おれの中にあるのは英(はなぶさ)青(あお)としてのものばかりだ。あのコドモドラゴンは、おれを転生させるとか言っていたけれど、生まれ変わるっていうのはふつう、この世に誕生するところから始まるべきじゃないだろうか。
「……ごめん。なにも、分からない」
そうですか、と女性も肩を落としたが、はっと思い出したように顔を上げた。
「そうだ! 殿下の好物がございますよ。トリノハナの実です」
「トリノハナ?」
再び女性は立ち上がり、机の上から小皿を持って戻ってくると、寝台に備え付けられていた小さな台の上にそっと置いた。小さいリンゴに似た、丸くて赤い果物が三、四つ揺れている。
女性に手伝ってもらいながら身を起こすと、ずきっと尻穴が痛んだ。絶対に裂けているぞ、これは。おれの動きを見ながら、女性はさりげない動きでクッションを背もたれに差し込んでくれた。さっきからよく気が付くな、と感心してしまう。よくは分からないが、フィオというのが、この身体の持ち主なのだろう。『殿下』だなんて呼ばれている。やんごとなき身分だったら面白いな、と考えながら小皿に手を伸ばした。小さなリンゴに似た外観からは想像できない、瑞々しい食感とふんわり広がる甘味は食べたことがない味だ。とても美味しい。いきなり身体の痛みから始まったのはきついが、このトリノハナは気に入った。
「ありがとう。とっても美味しいです」
こんな甘い果物なんて、貧乏暮らししていた元のおれでは、中々手が届かなかったものの一つだ。この身体を売り物にして稼ぎがあっても、その月の生活費に充てればあっという間になくなっていったから。
「殿下、子どもみたいな食べ方をなさって……お口の周りが濡れてますよ」
ようやく女性が笑った。手拭きを出して水で湿らし、おれの口周りを拭いてくる。それこそ小さな子どもになってしまった気がした。こんな風にされた記憶はないので、余計に気恥ずかしい。
「子どもじゃないと思うんだけど……何歳なんだろう、おれは」
手の形を見ると、痩せているけれど子どもっぽくもないし、かといって歳を重ねているようにも思えない。もう一つ食べようか悩みながら女性に質問すると、彼女は諦めたのか、苦笑した。
「殿下は二十歳になられたばかりで……あの、失礼ながら、殿下が覚えていらっしゃることはありますか?」
「覚えていること?」
さすがに、世界を跨いで登場しました、と言っても信じてはもらえないだろう。とりあえず、年齢は同じか。おれは頭を必死で捻ったが、ごまかしても無理だろうと早々に結論付け、「名前は、アオなんだ」とだけ答えた。
「アオ様……ですか。殿下のお名前は、正しくはフィオ・アロ・ケツィアなのですが……色々とお辛かったですものね。無理に思い出す必要はございません。私の名前はライラ、と申します。殿下の護衛をしております。先ほど無礼をして席を立った男は、グレンと申します。あの男も殿下の護衛で、かつ世話係としてずっとお側におりました」
「ライラさんと、……グレンさん。殿下って、おれのことでしょうか?」
我々を呼ぶのに敬称はつけないでください、とライラが苦笑した。敬語も不要だと重ねて言われる。
「もちろん、殿下とはフィオ様のことです。フィオ様はケツィア王のご子息で……ただ、この国の悪習により、生まれてからずっと、決められた場所でお過ごしでした」
「えっ、王子ってこと?! でも、決められた場所? 監禁されていたってこと?」
頭の中が疑問符で埋められていく。ライラが段々と泣きそうな表情になっていくので、おれもこれ以上は何も言えない雰囲気になった。もしかしたら、彼女を追い詰めることを知らずに言ってしまったのかもしれない。
「うーん。その話を聞いても、やっぱり何も分からないや。なんか、色々あったみたいだけど。……呆れないで、色々教えてくれると嬉しいです」
あはは、と笑いながらライラに話しかけると、ライラは涙が溜まりかけていた目を丸くした。驚いている。
「でも、おれは王子として生まれたことすら分からないから。殿下ってつけられると、ちょっと。できれば、アオって呼んでもらえると嬉しいけど……」
無理かな、と首を傾げると、ライラは「いいえ」と涙目で笑ってくれた。
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