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1884年秋。
見渡すかぎり連なる低山は、その一つ一つが斑らな紅黄で染められている。
日本からここまで、兄弟が自力で辿り着くことは不可能だっただろう。唯一雇った現地の案内人を先頭に、続く兄の背中を眺めながら弟は考えていた。
清南部に流れる鬱江を上流へと辿り、やがて至る合流点では本流である右江に沿って北西へ。ひたすら遡っていく途中、川筋を離れ内陸へと分け入っていく。これだけでも相当な経路であるが、加えて、昨年から続くフランスと大清の戦争は沸々としたある種の昂揚感をもたらしていた。異邦人たる兄弟にとって無用な諍いを避けるべく、人里を迂回し、低山といえど不慣れな山越えを猟師道を使って敢行し、時には検問をも掻い潜った。その道程はお世辞にも合法とは言えず、金も幾らか積んでいる。今更、引き返せる訳もない。
兄の擦りきれた外套から視線を逸らすと、昼時の陽光に照らされた山々が水平に果てなく並んでいる。そうした勘考の末、兄弟は二十を下らない数の低山を越える羽目になっているのだった。
「タツ!」
弟は先を歩く兄を呼ぶ。
「まだ進むのか! おいタツ!」
兄は振り返らない。その代わりに「まだか」と先頭の案内人に声を飛ばしていた。一行はこれまでで最も高い山に差し掛かっていた。
「この山を越えた所で一度休もう!」
兄がそう判断した矢先、先頭の足が止まった。
「いや。もう着いた」
案内人は覚束ない英語で愛想なく答え、眼下を指差す。数多連なる山々と、その一つへ寄り添う様に建てられた白亜の宮殿が見える。
それこそは大陸に佇む気高き国、兄弟の目的地。
「あれが天籟だ」
谷から逆巻く一陣の風が、強く、兄弟を吹き抜けていった。
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