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3
エレベーターは上から降りてきた。
先に一人、女の人が乗っている。
僕たちは無言で乗り込むと、下へと運ばれる。
小さなエレベーターの中は、彼女のつける香水がほのかに香る。
その香りで夏の記憶がよみがえる。
あれ以来、彼女との接触はない。
出会っても、今朝のように会釈程度だ。
一階に着くと、僕は最後に降りた。
彼女とは一緒の方向だけど、ずっと一緒なのは何だか気まずい。
職場までは徒歩10分。
僕は意識的に歩を緩めて、彼女と距離を取ろうとした。
しかし、先に歩いていた彼女が急に振り向いて、僕を真っ直ぐ見た。
そして、驚いて立ち止まっている僕に話しかけた。
「あの。同じ方向ですよね。一緒に行きませんか。」
僕に言ったと分かっているけど、信じられなくて、周りを見た。
「あなたに言ってます。お隣さん。」
笑顔で話す彼女の息は白く、朝の光の中では、紗のかかった演出みたいだった。
僕は、驚きながら何度も首を縦に振る。
そんな僕が可笑しいのか、彼女は笑いながら僕の隣に並んだ。
ハイヒールを履いた彼女と僕の身長差は10cmくらい。
僕の方が高い。
「隣のカフェレストランで働いてますよね。」
隣を歩く彼女は、僕を見ながら話す。
僕はまた、縦に大きく首を振る。
知ってたんだ。
「普段、お店ではあんまり見ないから、マンションで見かけた時は人違いかと思ってました。」
初めて話をするのに、久しぶりに会った同級生のように話す。
「ウチのお店でも、時々話題に上がりますよ。同僚がお隣さんを見掛けた日はテンションが上がっちゃって、みんな興奮して話してます。まるで来日中のハリウッドスターを見た、みたいな感じで。」
僕はその話を聞いて驚いた。
自分がそんな風に話題のネタになっていることに、ぞっとした。
マフラーで顔の半分くらいまで隠しているけれど、更に上までマフラーを上げた。
「本当は、一度、お隣さんのお店とウチのお店の合コンの話、店長さんに頼んだんですけど、断られちゃいました。」
いたずらがバレたような微笑みは、きっと俗にいう小悪魔的な微笑みなんだろうけど、僕には話の内容しか入ってこない。
だって、合コンなんて僕にとっては地獄の苦行のような話だ。
「今はまだ、店のみんなには内緒にしてるんです。あなたが私の隣に住んでること。」
その事を聞いて少し安心した。
「だって、そんな事話したら、みんな私の家に来たがるでしょ。それは私も困るから。だから、絶対に秘密ですよ。」
彼女は、小悪魔の仕草で僕の左腕をそっと掴むと、内緒話の音量で囁く。
僕は彼女の仕草を上の空で見ながら頷く。
今の僕の頭の中は、あの夏の日の記憶で一杯だった。
「今年の夏。私を部屋まで運んでくれたのは、お隣さんですよね?」
頭の中を覗かれたのかと思って、思わず立ち止まった。でも、それが答えのようなものだった。
彼女も一歩先で立ち止まると、振り向いて正面から僕を覗き込んだ。
そして、微笑みを携えた顔を僕の耳元に近づけて、囁いた。
「私の部屋、相変わらずなんです。だから、誰も入れたことが無いの。あなた以外。」
それは、この上なく甘美な囁きだった。
「私、見た目、こんなだから、部屋も綺麗だって思われてるんです。」
確かに。彼女は綺麗な人だ。
芸能人のなりたい顔ランキングの上位に必ず名前が挙がる、クールビューティーな女優さんに、雰囲気も含めて少し似ている。
スタイルも、華奢なハイヒールで十分支えられそうなほどに痩身で、夏の日に抱きかかえた時も、見た目以上に細くて、軽くて驚いた。
「でも、あなたもそうですよね。」
僕はドキッとして、目を見開いた。
彼女はそれを見逃さず、微笑んだ。
「身長が高くて、スタイルも抜群。顔はちゃんと見せてくれないけど、誰が見たってイケメン。今だって、マフラーでほとんど隠れてるけど、目元だけでイケメンオーラが溢れ出てますよ。」
彼女の言葉を正面からとらえることが苦痛になって、目を逸らした。
「でも、極端に話すことが苦手。特に女性には。」
また、ドキッとした。
「私達、見ためはイケてるのに、何か足りない。
足りないモノは違うけど、そういうところが、似たもの同士だと思いません?」
僕たちが似た者同士?
「周りのみんなには秘密で、お友達になりません?お隣さんとして。」
お友達。
その言葉に、少し惹かれた。
「私、水城梨子です。」
そう言うと、手を出して握手を求めた。
水城さんの細い手をじっと見ながら、その手を取るかどうか迷った。
でも、夏の日から続く、彼女への衝動がその迷いを打ち消す。
僕は握手をする前に、マフラーをずらして顔を見せると、大きく息を吸い込んだ。
「ぼっぼっ僕、の、なっなっなっ前、は、かっ加賀美、まっまこっこと。真でっです。」
僕の名前は、加賀美真です。
それだけ言うのに随分時間がかかる。相手にちゃんと伝わっているかも不安だ。
こんな僕に、水城さんは驚いた様子も無く、しっかりと頷いて確認する。
「加賀美真さん。ね?」
僕の目を覗き込むようにみる。
僕は頷く。
「あなたが吃音だってこと、店長さんにこっそり教えて貰って知ってるの。だから、安心して。」
僕は深く息を吸い込んで、もう一度、声を出した。
さっきよりもゆっくりと話すことを心掛けた。
「あっ、あっあの。へっ部屋を、かっかっかたづっづけさせて、くっくください。」
部屋を片付けさせてください。
あの夏の日からずっと、言いたくても言えなかった言葉。
僕は、吃音持ちであると共に、お掃除マニアなのだ。
あの夏の日からずっと、水城さんの部屋が気になって、気になって。
ずっと、あの部屋に片思いをしていた。
僕の急な申し出に、水城さんは綺麗な笑顔で微笑みながら、僕の手を取った。
「喜んで。これで私達は秘密の友達ね。」
僕はあの部屋に引っ越してきて初めて、女の人に心から微笑んだ。
消える事の無かった欲望を満たせるかもしれない希望と、こんな僕を嫌な顔をせずに受け入れてくれるお隣さんが出来たことで、僕の世界は急に広がった。
僕は、水城さんの細い手を握り返しながら、あの部屋を掃除出来る喜びを伝えた。
「ゆっ、夢。みっみたい、だ。」
夢みたいだ。
僕は、高揚が収まらない心臓を押えながら、空を仰いだ。
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