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Rose blanche
英国に本社を構えるクラシック・ライン社恒例のクリスマスクルーズを翌日に控えたその日、扉をノックする音に、チーフ・オフィサーのマイケル《Michael》は書類から顔をあげた。ついでに時計を確認すれば、随分と集中してしまっていたことに驚く。
十二月十二日。英国では一年で一番日の入りの早い日。小さな窓から見える船の外は、もう夕暮れだった。
「誰だ?」
『俺だ』
誰何の声に間髪入れず返ってきた声は、ドア越しにくぐもっていようとも聞き間違える筈もない恋人の声。マイケルは急いで立ち上がり、ドアへと駆け寄った。
鍵を開け、ドアを開ければスーツ姿のクリストファー《Christopher》が立っている。久し振りに会えた恋人へと、マイケルは飛びついた。
「クリス…!」
数か月振りの逢瀬にぎゅうぎゅうと抱き締めていれば、揶揄うような声がマイケルの耳へと流れ込んだ。
「熱烈に歓迎してくれるのはありがたいが、少しは場所を考えたらどうだ?」
喉を鳴らすような笑い声に顔をあげれば、ちょうど通路を通りがかったガブリエル《Gabriel》と目が合って、マイケルは急速に顔が熱くなるのを感じた。
「あ…、いや、これは…っ、その…」
「照れなくてもいいじゃないかマイク。俺は、父上や親父のようにあなたを揶揄ったりはしないよ」
けど…と、そう言ってガブリエルは少しばかり視線を上げた。
「あなたの最愛の人から素敵なプレゼントを受け取りたいなら、早めに解放してあげた方がいいと思うな」
そう言ってひらひらと手を振りながら去っていくガブリエルの背中から、マイケルは視線を上げた。
クリストファーの片腕が何かを頭上にあげている。
「クリス?」
持っているものを確認しようと僅かに身を引いたマイケルだったが、今度はクリストファーの方から詰め寄られ、あっさりと片腕で抱えあげられた。
「ちょ…っ、クリス!」
「大人しくしてろよ王子様? さすがに片腕で、お前に暴れられたら落としかねない」
落としかねないと、その言葉にマイケルがクリストファーの首筋へとしがみ付いたことは言うまでもない。
抱えられたまま部屋を横切り、壁際に設えられた寝台の上へとマイケルは下ろされた。その目の前に、ふわりと花束が差し出される。
「ガブリエルの言う通り、危うくお前に抱き潰されるところだった」
「これ…」
ウエディングブーケのような、白い薔薇の花束。
「今日って…」
「ダーズンローズデイ《Darzen Rose Day》だろう?」
こともなげに言い放ち、ひらひらと白い封筒を振って見せるクリストファーに、マイケルは目を見開いた。
「このために、一日早いがガブリエルに乗船させてもらった」
「まさかそれ…」
「クリスマスクルーズの招待状だが?」
にやりと口角をあげたクリストファーの手から、マイケルは封筒を奪い取った。丁寧に端を切り取られた封筒から抜き出した招待状は、間違いなく本物である。
つまりクリストファーは、ゲストとしてここに居る。それが何を意味するのかが分からないほど、マイケルは鈍感ではなかった。
「一緒に…居られるのか…?」
「ああそうだ」
クリストファーが組織に戻り数年。マイケルとクリストファーが共にできた時間はごく短い。期限が決められているとはいえど、クルージングの期間中一緒に居られるのを喜ばないはずがなかった。
マイケルは一瞬にしてクリストファーへと飛びついた。
「おっ…と、急に飛びつくなよ危ないだろ」
危ないと言いながらも、クリストファーがマイケルの躰をしっかりと抱きとめてくれることは分かりきっている。
「うちの姫様は力持ちだから大丈夫だ」
「ああ、そうだな」
「クリス、…寂しかった」
首元に顔を埋めたまま囁くマイケルの髪を、クリストファーの手が優しく撫でた。
「いい大人が何を言ってる。どうせ老後は嫌というほど一緒に居られるさ」
顔をあげたマイケルと、クリストファーの視線がぶつかる。髪と同じこげ茶の瞳が、不満をありありと浮かべてクリストファーを見上げた。
「クリスは寂しくないのか?」
寂しいかと問われれば、多少の寂しさはあるクリストファーだ。だが、仕事が忙しくて寂しいなどと言っている場合ではないのが現実である。しかしそれを正直に告げれば、マイケルの機嫌を損ねるだろうこともクリストファーにはよく分かっていた。
寂しくないはずがあるかと、マイケルの躰を強く抱き寄せる。
「だからこうして、お前に会いに来た」
「薔薇を持って?」
「ああそうだ」
キザだと、そう言ってマイケルは可笑しそうに笑う。
マイケルの機嫌を損ねずに済んだクリストファーが、ほっと胸を撫で下ろしたことは言うまでもない。
数十分後、ゲストルームの前に立ったマイケルはふるふるとその肩を震わせることとなった。そこはもちろん、クリストファーが滞在予定の部屋である。
いくらクリストファーが休みといえど、通常通り仕事があり、真面目なマイケルが客室で寝起きするのを嫌がらないはずはなかった。それを、クリストファーは監視していなくていいのかと言いくるめ、宥めすかして連れてきたのだ。だが…。
「お前はまた…、適当に散財ばかりして…!」
『Queen of the SeasⅡ』で働いているマイケルが、ゲストルームのグレードを知らないはずもない。もちろん、その値段も。
じろりと睨むマイケルの前で、クリストファーは両手をあげてみせた。
「誤解はよせ。だいたい俺は招待状をもらっただけで自分で買った訳じゃない」
「え?」
一瞬にして動きを止めたマイケルの背中を押して、クリストファーは部屋へと入った。
部屋へと入ったマイケルはソファに腰かけて座面を叩く。その仕草に、クリストファーは苦笑を漏らしながらも隣へと腰を下ろした。
するりと、マイケルの腕がクリストファーの腰に巻きつく。
「誰に招待状なんてもらったんだ」
「この船の家主に決まってるだろう」
「フレッドめ…」
「そういえばお前に手紙を預かってる」
胸元をごそごそと漁り、クリストファーが紙片を抜き出す。マイケルはすぐさまそれを奪い取った。ただ四つ折りにされただけの紙を開けば、日誌でも見慣れたフレデリックの文字が目に入る。
書かれた文字をさらりと流し読んで、マイケルはくしゃりと丸めた紙を放り投げた。
床に転がった紙くずを見遣り、クリストファーが苦笑を漏らす。
「素直に喜んだらどうだ」
「何がクリスマスプレゼントだ! クリスは元々俺のものだ!」
憤慨するマイケルに、クリストファーは思わず吹き出した。まったく素直じゃないと、そう思う。
「せっかくふたりきりで居られるってのに、お前はいつまで拗ねてるつもりだ? 拗ねられるより、俺はお前に甘えられたい」
クリストファーが低く耳元で囁けば、あっという間にマイケルの表情はとろりと蕩けた。
「クリス…」
しなだれかかるマイケルの躰を持ちあげて、クリストファーは膝の上へと抱え上げた。せっかくだからとマイケルが自室から持ってきた花束を取りあげる。
「うちの王子様は、どの薔薇を俺に返してくれるんだ?」
「逆じゃないか…?」
「そうかたい事を言うなよ」
じっと薔薇の花束を見つめるマイケルを、クリストファーが見上げる。
やがておもむろに一本の白薔薇を抜き出したマイケルは、どこか恥ずかしそうにクリストファーへと差し出した。
「俺は…お前に”誠実”を誓う」
「ククッ、実にお前らしい選択だ」
「クリスだって一度全部渡したからには、ちゃんと守ってもらうからな…っ」
「ああ、誓うさ」
ことのほか真面目な顔で囁いて、クリストファーは薔薇を抱いたマイケルを引き寄せた。
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