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Rose orange
先代の『Queen of the Seas』の名を引き継いだ新しい船にオフィサーとして乗船したシルヴァン《Sylvain》にとって、翌日に控えたクリスマスクルーズは二度目の航海となる。
元々セキュリティー部門の統括として乗船してはいたものの、与えられた職務はまったく違うもので、シルヴァンにとっては慣れない事ばかりだった。
自室へと向かう通路の窓から見える景色は、すでに夕闇に沈んでいる。
――遅くなってしまったな…。
翌日からの航海に支障が出ないようにと、シルヴァンに与えられた仕事の量はそう多くない。にもかかわらず、思ったよりも時間が掛かってしまった事に小さな溜息を吐いた。と、ちょうどその時だった。目の前のドアが開き、シルヴァンは慌てて足を止めた。
開いたドアから出てきた大きな影に、一歩後退る。
「っ…ロイ」
「やあシルヴィー、今帰りかい?」
「は、はい…」
まったくもって嫌なタイミングでとんでもない相手に出会ってしまったと、シルヴァンが思うのも致し方のない事だっただろうか。
組織のアンダーボスにしてこの船のキャプテンでもあるフレデリックとよく似た金髪と碧い瞳。そしてフレデリックよりも大きな体躯を持ち、幹部の座を一度は自ら蹴ったという逸話の持ち主、ロイク・ヴァシュレ《Loic Bachelet》。
いったい何故この男がこんな場所に? と、思いはしてもシルヴァンの立場では到底聞くことさえも適わない相手だった。
「そう。そろそろこの船には慣れたかい?」
「まだまだ至らず…」
シルヴァンの背中を冷たい汗が流れ落ちる。意識せず震える声に、ロイクはくすりと可笑しそうに笑った。
「そんなに固くならなくても、別に取って喰いはしないよ」
「そういう…訳では…」
否定の言葉を吐きながらも、どうしても圧に飲まれそうになるのを堪えきれずにいるシルヴァンだったが、その緊張は一瞬にして焦りへと変わった。そう、恋人が名を呼ぶ声で。
「シルヴァーン!」
「ッ!?」
振り返った先、通路の角からこちらへと大きく手を振る姿は見間違いようもないウィリアム《William》だった。まさしく大型犬が飼い主に駆け寄るがごときその姿に待ったをかける暇もない。
「あれ? フレッド…じゃない、ロイ!!」
「やあウィル。ご主人様をお迎えに来たのかな?」
「はいっ!」
にこにこと笑いながら元気よく返事をするウィリアムに、シルヴァンは頭を抱えたくなる。組織の中でもボスやアンダーボスに並ぶロイクを相手に危機感がないにも程があるというのだ。
すぐ隣に立ち、ウィリアムはシルヴァンの腰を抱いた。
「明日からクリスマスクルーズですね! ロイは、誰と一緒に過ごされるんですか?」
「フレッド」
「ええっ!? でもっ、フレッドには辰巳さんが…っ! そんなことしたら辰巳さんに怒られちゃいますよ!」
怒られるだけでは済まないだろう…と、シルヴァンが内心で思わずツッコミを入れた事は言うまでもない。下手をすれば死人が出るだろうと、そう思う。
「まぁそれは冗談として、僕のパートナーはそう易々と教えてあげられないなぁ」
「えぇ…っ」
「ま、気が向いたらそのうち教えてあげるよ」
じゃあねと、片手をあげてあっさりとロイクはウィリアムがやって来たのとは逆の方へと歩いていってしまった。
その背中を見送りながら、ウィリアムがぽつりと呟く。
「誰だろう…」
「さてな」
「シルヴァンも知らないんですか?」
「ああ」
「そっかぁ…」
シルヴァンが知らないのであれば、自分が知らなくても仕方がないと、ウィリアムはそう言って笑う。
「ところでシルヴァンっ、お仕事はもう終わったんですよね?」
きらきらと目を輝かせながらシルヴァンを見下ろすウィリアムである。
「ああ。少々遅くなってしまったがな。迎えに来てくれたんだろう?」
「はい!」
シルヴァンが足を踏み出せば合わせるようにウィリアムはついてくる。リード不要の大型犬。クルーたちが揶揄うようにウィリアムをそう言っているのをシルヴァンは知っていた。
――あながち間違ってはいないが…。
ちらりと横目で見遣れば、ウィリアムは見えない尻尾をパタパタと振っているかのようにシルヴァンへと大きな躰を寄せた。
「あっ、あの…シルヴァン…」
「なんだ」
「あっ、いえ、やっぱりなんでもないです…っ」
あからさまに何かを言いたそうにしながらも、サッと身を引くウィリアムに小首を傾げる。こういう時のウィリアムは、決まって何かを企んでいるのだが、その内容が悪だくみであった例はない。
まあ害はないかと、そう判断したシルヴァンは後ろでそわそわと落ち着かないウィリアムを連れて自室へと辿り着いた。
部屋へと戻った後もウィリアムの浮ついた態度は変わることなく続き、さすがのシルヴァンにも食事を終えたところで限界が訪れた。
綺麗に空いた皿の上に丁寧にカトラリーを置いて、シルヴァンがウィリアムを見る。
「ウィル」
「はっ、はい!」
「何か言いたい事があるのは分かっている。話してみろ」
単刀直入に切り出せば、声とも音ともつかぬような声音でウィリアムは唸った。
「あぁあの…、言いたいこと…ではなくて…あのぅ…」
「ではなんだ」
「ちょっと待っていてもらえますか!?」
唐突に立ち上がり、大きな声で言い放つウィリアムに思わず圧倒される。
「あ、ああ…」
僅かに仰け反りながら返事をするシルヴァンの口許は、ぴくりと引き攣った。
寝室へと入っていったウィリアムの背中を見送り、小さな溜息を吐く。
――何か、怒らせたか?
普段怒りという感情をウィリアムが露わにすることは、殆どない。現に今も、怒っているというよりは、ただ単に慌てて混乱した結果、声が大きくなってしまっただけなのだろうと、シルヴァンは冷静に考え、そして頭を振った。
――まあ、そのうち分かるか。
正直、ウィリアムは隠し事を出来るような男ではなかった。躰の大きさもさることながらおおらかで優しい。少々焦りやすいところはあるが、それも根が純粋な故だ。シルヴァンとともに組織にありながら、今もってウィリアムの純朴さは失われていなかった。
それでも以前に比べれば格段にウィリアムは成長している。時にはシルヴァンでさえも驚くほどに。
つらつらとそんな事を考えていれば、寝室の扉が僅かに開いてシルヴァンは視線を上げた。見れば、隙間からウィリアムが覗いている。
「あの…シルヴァン…」
「どうした」
「実は…その…」
言葉とともにもじもじと後ろ手のまま寝室から出てくるウィリアムである。
何事かと訝しむシルヴァンの目の前にようやく辿り着いたウィリアムは、ばッと頭を下げた。
「ッ!?」
「受け取ってくださいっ!」
次いで勢いよく目の前に差し出されたものは、暖かな色みのオレンジ色の薔薇の花束。
「そうか、ダーズンローズ・デイ《Darzen Rose Day》か」
「その…、元より俺はシルヴァンのものですけど…。どうしてもちゃんと伝えたくて」
下を向いたまま告げるウィリアムの手は、ふるふると震えていた。ありがとうと、シルヴァンが花束を受け取って、ようやくそろりと顔をあげる。
「もらってくれるんですか…?」
「当たり前だろう」
シルヴァンが抱えた十二本の薔薇を見下ろしていれば、目の前でウィリアムがへなへなと崩れ落ちる。その胸もとに、シルヴァンは花束から抜き出した薔薇を一本差し出した。
ウィリアムのきょとんとした顔が、薔薇とシルヴァンの間を行き来する。
「シルヴァン…?」
「なんだ、十二本の薔薇の意味も知らずに私にこれを渡したのか?」
「いぃいえ! えっと…、愛情と、誠実と、幸福と情熱、真実と信頼、希望と尊敬と栄光、永遠と努力と…感謝! …ですよね?」
指折り数えながら呪文のように唱えるウィリアムを見下ろし、シルヴァンは思わず微笑んだ。
「その通りだ。だから、お返しに私は”信頼”をお前に誓おう」
「それって…俺の”信頼”は返されちゃうって事ですか…?」
今にも泣きそうな声で見上げるウィリアムである。
「要らない…ですか…?」
「違う。ウィル、この十二本の薔薇の由来は知っているな?」
「はい…ウエディングブーケですよね?」
「ブーケと、ブートニアだ」
「ブートニア…。花婿さんの?」
「そうだ」
「でも、せっかくあげたのに返されちゃうんですか…?」
そんなのは寂しいですと、真顔でウィリアムは目に涙を浮かべる。
「では、これも私がもらっておこう。代わりに明日、私から薔薇を一本お前に贈るというのはどうだ?」
「俺に?」
「ああ。受け取ってくれるか?」
シルヴァンがそう言えば、見る間にウィリアムは顔を輝かせた。
「もちろんですシルヴァン!」
今までしょげかえっていたのが嘘のように立ち上がったウィリアムは、そそくさとシルヴァンの後ろへと回り込む。逞しい腕が、守るようにシルヴァンを包み込んだ。
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