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Rose pourpre
とある客船ではフラワーショップが大いににぎわいを見せている頃より時はだいぶ遡り、かれこれ十五年も前の日本時間、十二月十二日午後三時三十分。都内某所にありながらも広大な敷地を誇る邸宅の庭に、辰巳匡成と雪人の姿があった。
二階のバルコニーで優雅なお茶の時間を愉しんでいたふたりではあったが、庭を眺めていた雪人が突如振り返ったのは三十分ほど前の事である。そして言ったのだ。「庭に降りよう!」と。
かくして雪人が匡成を伴って訪れたのは、日当たりの良い場所に建てられた温室である。
全面がガラスで作られ、日差しを存分に浴びた温室の中は、十二月とは思えないほどに暖かい。個人所有というには些か広すぎる温室には、すでに新たなティーセットが用意され、腰を下ろした匡成は、これは雪人が何かを企んでいるだろうと内心で溜息を吐いた。
「それで? 今度は何を企んでやがる」
華奢な白いカップを持ちあげながら匡成が言えば、雪人は僅かに顔を俯けた。はらりと落ちた前髪が伏し目の長い睫毛を隠し、朱に染まった頬にかかる。
「その、匡成にお願いがあって…」
雪人の言葉に、匡成は僅かに眉をあげた。珍しいこともあるものだと。
「言ってみろ」
いつもなら匡成にお伺いなどたてもせずに好き勝手振舞う雪人である。それが”お願い”など、内容が気にならないはずもない。
匡成が戻したカップとソーサーが触れあう音に、雪人はようやく顔をあげた。
「怒らないか…?」
「内容によるな」
「駄目だ。怒らないって約束しろ!」
「お前なぁ、それが人にもの頼む態度か?」
呆れたと、椅子に背を預ける匡成の目の前で、再び雪人は俯いた。その唇から、ぽそぽそと悲しげな声が零れ落ちる。
「これだけは…俺一人でどうにかできるものじゃないんだ…」
「だから聞いてやっから言ってみろっつってんだろうが」
「…………薔薇を…」
「ああ?」
「……薔薇が欲しい…」
「はあ?」
匡成が温室を見回せば、そこかしこに薔薇が咲いている。それなのに薔薇が欲しいとはどういうことか。
意味が分からないと怪訝な顔で雪人を見ていれば、いつの間にか隣に立った執事が静かに鋏を差し出した。思わず、反射的に受け取った鋏を匡成はじっと見る。
「これで俺に薔薇切れってか?」
くるくると手の中の刃物を弄びながら可笑しそうに匡成が言えば、雪人がこくりと頷く。
「今日は…特別な日なんだ」
「特別? 十二月十二日がか?」
再びこくりと頷く雪人に、いよいよ匡成は頭を悩ませる。匡成の知る限り、月と日が重なるだけで先ず思いあたるのは五節句くらいのものだが、十二月にそんなものはない。他に何かあったかと、考えを巡らせてみても思い当る節などなかった。
――籍入れたのは十二月じゃねえな。引っ越しも違ぇな。…なんだ?
柄にもなく様々なことに考えを巡らせる匡成ではあったが、当然そんなものが長く続く筈もない。あっさりと考えることを放棄した匡成は、目の前の煙草へと手を伸ばした。
「わかんねぇな。今日が何だってんだ」
もはやお手上げの匡成が、怒らないから言ってみろと促してやれば、雪人の顔がぱっとあがる。
「今日はダーズンローズデイと言ってな、十二本の薔薇を恋人に贈る日だ」
「ああ?」
匡成が、怒りを通り越して呆れ果てた事は言うまでもない。
「それでどうして俺がこんなもの渡されなきゃならねぇんだ」
手の中の鋏を見下ろす匡成の疑問に答えたのは、雪人ではなく隣に立つ執事であった。
【1ダースの薔薇】十二というその数字にかけて、十二月十二日をダーズンローズデイとそう称するのだと、馬鹿丁寧に説明されてしまえばいくら記念日などに疎い匡成とて理解は出来た。そのうえブーケとブートニアに由来すると親切丁寧に説明する執事に、匡成の目の前で雪人がうんうんと頷いている始末だ。
「つまりお前は、俺にブーケを作らせてぇって魂胆か。あぁ雪人?」
「魂胆などと言われるのは些かならず不満だが、その通りだ」
頗る男前な顔で肯定する雪人に、匡成の咥えた煙草からぽろりと灰が落ちる。
「匡成?」
一切の動きを止めてしまった匡成に代わり、そそくさと席を立って落ちた灰を払う雪人である。それでもなお動こうとしない匡成を見上げ、雪人は綺麗になった膝へと額をこつんと乗せた。
「匡成…、俺の我儘を聞いてくれ」
「お前の我儘なんざとうに聞き飽きてんだよ阿呆」
頭上から降ってくる容赦のない匡成の声に、雪人の口から奇妙な呻きが漏れる。だが、そんな雪人はあっさりと腕を引きあげられた。
もちろん腕を引いたのは匡成だ。
「だったらいつまでもそんなところに座り込んでんじゃねえよ」
雪人の腕を引いたまま立ち上がった匡成が苦笑を漏らす。
「たまには付き合ってやる」
「匡成…っ!」
ぱぁと顔を輝かせた雪人が匡成を誘ったのは、様々な薔薇が咲き誇る温室の中でも奥にあるとっておきの一画。入っただけでは見えないその場所には、上品で美しい紫色の薔薇がある。
「珍しい色だな」
「交配だけでここまで青に近い薔薇を育てるのは、とても難しいからな」
第一線を退いてから、雪人が毎日温室に通っている事は匡成も知っていた。仕事から帰った匡成に、今日はどんな花が咲いたとか、そんな些細な話を雪人は嬉しそうに話すのだ。
つい一年前までの雪人は、それはもう多忙を極めるグループ企業のトップだった。それを、匡成との生活のためだけに雪人は捨てたのだ。
「戻りてぇとは、思わねえのか?」
「え?」
思わず口に出してしまった言葉に、雪人が振り返る。
「毎日こんなところにひきこもって、つまんなくねえのかって聞いてんだよ」
「ここで薔薇の世話をしながらお前の事を考えているのは楽しいよ。それに、言うほど俺はひきこもってる訳じゃないぞ。お前は仕事で出ているから知らないだけで、買い物にも観劇にも行ってる。もちろんまだ付き合いだって色々あるしな」
確かに言われてみれば、雪人が日中なにをしているのかなど匡成はなにひとつ知らなかった。たまの休みとなればダラダラと部屋で過ごすか食事に出かけるくらいだが、仕事中に雪人が何をしているのかなど考えた事もない。
些か薄情すぎたかと、思いはしても口には出せない匡成である。
「それならいいが」
「まさかお前、俺が毎日庭いじりだけして過ごしているとでも思ってるんじゃないだろうな…」
「お前の話聞いてっと、それくらいしか想像できねえだろ」
「本当にお前は失礼な奴だな! 俺をただの年寄りか何かだとでも思ってるのか!?」
「そりゃあお前、年寄りに失礼だろうが」
「だいたい俺はまだ年寄りと言われる年じゃない!」
同い年の五十一。確かにまだ年寄りと言われる年齢でないことは匡成も承知している。が、話したいことはそこではないのだと、匡成は思わず項垂れた。
匡成は額に手を遣ったまま、悪かったと片手をあげてみせた。そして、ふと目の前の薔薇を見て気付く。
「つぅかお前、せっかく育てたのに切っちまっていいのかこれ」
「少しもらうだけだ。またすぐに美しい蕾をつけてくれるさ」
育てた本人が言うのだからまあいいかと、匡成は薔薇の植え込みの前に膝をついた。すぐ横から、雪人が覗き込む。
「どれも美しく咲いているな」
「そうだな」
それはもう時間をかけて、匡成は雪人が育てた薔薇を丁寧に一本一本切り取っていった。それぞれに意味があるのだと、雪人の言葉を聞きながら。
花を選び鋏を入れていくその行為は、思うよりも穏やかな時間を匡成にもたらした。たまにはこんな時間があってもいいかと、そう思う。
そうして出来上がった艶やかな紫色の薔薇の花束。
読み終えた英字新聞でくるんだだけの花束を、雪人は嬉しそうに匡成の手から受け取った。
「ありがとう匡成」
「おう。来年もくれてやっから育てとけよ」
来年も。そう言ってくれる匡成の言葉が雪人には何よりも嬉しかった。なんだかんだと悪態を吐きながらも、匡成はいつも雪人を喜ばせる。
匡成がくれた花束を大事そうに抱えたまま、思い立ったようにくるりと踵を返した雪人は、静かに植え込みの前に膝をついた。
パチンと、小さな音が匡成の耳に届く。が、次の瞬間。
「痛…っ」
微かな呻きとともに指を咥えて振り返った雪人の片手には、一輪の薔薇が握られていた。
「なにやってんだお前は」
呆れたように近付いた匡成の胸もとに、雪人の手が薔薇を挿す。
「せっかく匡成にもらったものを返すのは嫌だからな」
「それで棘に刺されたってか? 不器用すぎんだろお前」
「いつもは手袋をしてるんだ!」
「ああそうかよ。そんで? お前が寄越したのはなんの薔薇だ?」
揶揄うように問いかける匡成に、見る間に雪人の頬は赤く染まった。
「もちろん……愛情…に…決まっている…」
「ああ? 聞こえねえな」
「っ! 愛情だッ、バカ!」
上品な紫色の薔薇には似つかわしくもない大声で叫び、ふいと後ろを向いてしまう雪人である。その肩を、匡成は手荒く引き寄せた。
あっという間に手を取られ、微かに血のにじんだ指先を匡成の舌が舐め上げる。
「…っ!」
「俺にはあれこれ十二本も要求しておいて、お前は一本だけか? それじゃあ釣り合いがとれねえだろうが。なぁ雪人」
耳元に低く囁く匡成の腕は、それはもうしっかりと雪人の腰を抱いていた。
「足りねえ分はどうしてくれんだ? ん?」
「っ…俺を……、好きに…して」
「良い子だ雪人。たっぷり部屋で可愛がってやる」
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