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Rose rouge
世界各地の地上では、賑やかなBGMやお決まりの赤や緑の装飾が目立ち始める十二月。毎年恒例のクリスマスツリーの設置が完了したと、クルーからの報告を受けたフレデリック《Frederic》は、辰巳一意を伴ってグランドロビーへと向かった。
出港前という事もあって、船内を歩き回るクルーはみな私服である。フレデリックもまた落ち着いた色合いのスーツを纏い、普段の制服を身につけてはいない。
世界一の豪華客船との呼び声も高い『Queen of the Seas Ⅱ』。この時期には吹き抜けのグランドロビーに大きなツリーが設置され、美しいクリスタルのオーナメントが照明を反射してキラキラと輝く。
グランドロビーに足を踏み入れれば、客室部門の支配人であるハーヴィー《Harvey》が腕を組んで出迎えた。その顔はどこか誇らしげでもある。
「やあハーヴィー、今年も我が家のクリスマスツリーは素敵だね」
「当然だろう。この時期のクルーズは家族連れのゲストが多い、手抜きなど出来るものか」
ハーヴィー曰く、家族で過ごすクリスマスの会場にこの船を選んだからには、後悔はさせないという事らしい。当然、各ゲストルームにもツリーは飾られているのだが、やはりグランドロビーの大きなツリーを目的に乗船するゲストは多い。
ターゲットをクリスマスに絞ったクルージングは、先代の『Queen of the Seas』の時代から毎年この時期に開催される。ゲストの殆どが家族連れなのもこの時期ならではと言えた。これが日本の港を拠点にしている客船になると、途端に家族連れよりも恋人同士のゲストの比率が高くなる。
普段より寄港地も少なく、期間も短い航海ではあるが、クラシック・ライン社の”もてなし”に変わりはない。客室、サービス、クルー、それに安全性。そのすべてがこの船を世界一と言わしめるに必要不可欠な要素だ。何ひとつ欠けることはない。
翌日に出港を控えた船内は、どこもかしこもクルーが忙しなく行きかっている。そんな中、フレデリックと辰巳、それにハーヴィーの三人は思い思いにツリーを見上げた。
「それで、今年はこれでいいのか?」
「もちろんだよハーヴィー。キミに任せておけば、僕が確認する必要なんて本当はないんだけれどね」
視線を通常の高さに戻し、フレデリックが微笑む。その隣で、辰巳は未だにツリーを見上げていた。
部外者であるはずの辰巳が出港前の船内にいたとしても、もはや文句を言う者はいない。船が新しくなってもクルーたちの大半は顔ぶれも変わらず、フレデリックは相変わらずの甘やかされっぷりである。
「素敵だろう?」
過剰なまでに辰巳の耳元へと顔を寄せて囁くフレデリックの顔面を、大きな掌が押し返す。
「近ぇんだよこのタコ」
「ンもう…、どうしてそうキミは雰囲気を台無しにするかな…!」
「そんなもんは元からねぇな」
さらりと言ってのけ、辰巳はフレデリックの顔から手を退けた。
幾分か乱れた前髪をフレデリックがそそくさと直していれば、仕事があると言ってハーヴィーは踵を返した。フレデリックが掛けた労いの声に、片手をあげて去っていく。
辰巳の視線の先で、クルーの幾人かに指示を出し終えたフレデリックが振り返る。
「さあ、僕の仕事はこれでお終い。少し寄りたいところがあるから、先に部屋に戻っていてくれるかい?」
珍しくも一緒に来いとは言わないフレデリックに、辰巳は驚きを隠せなかった。否、フレデリックが何かを企んでいる事は明白である。
「またロクでもねぇ魂胆してやがんじゃねぇだろぅな」
「失礼だなぁ。今日は特別な日だから、必要なものを取りに行くだけだよ」
「特別な日? 何かあったか」
考えるそぶりの辰巳ではあるが、どうせ考えたところで思い当るものなどない。そもそもフレデリックのように、辰巳が記念日の類を覚えていようはずもなかった。
ともあれさっさと踵を返してしまったフレデリックを引き留める理由もない。ツリーが完成したと言って部屋から連れ出されたにもかかわらず、置いていかれるのは些か不満ではあるが。
「ったく」
思えば出会ったその瞬間からフレデリックには振り回されている辰巳である。小さな悪態を吐いてみても、すでに通路を曲がってしまったフレデリックには聞こえるはずもない。
――いつまでも突っ立ってても仕方ねぇか。
周りを見れば、各々与えられた仕事をまっとうするクルーの姿がある。そんな中に、フレデリックとならまだしも一人部外者が立っているのだから辰巳といえど多少は気も引ける思いもあった。
所在もなく頭を掻いた辰巳は、部屋に向かって歩き出した。
辰巳がドアを開けると、すでにそこにはフレデリックの姿があった。グランドロビーからまっすぐ戻った辰巳よりも、フレデリックが先に戻っていても何ら不思議はない。この船の中は、事実フレデリックの家のようなものだ。
少し早いが夕食にしようと、フレデリックが辰巳を誘ったのは部屋に備え付けのサンルームだった。ドーム状に張り出した強化ガラスの向こうには、明かりの灯り始めたサウサンプトンの街並みと、夕日に照らされる海が一望できる。
「これを、キミに」
そう言ってフレデリックが指した先には、薔薇の花束。
フレデリックが取りに行っていたのはこれなのだろうと、辰巳には容易に想像がついた。だが、その理由となると皆目見当もつかないのだが。
”特別な日”だとフレデリックが言っていたのを思い出し、辰巳は今日は何月何日だったかと思案する。
――十二月十二日、ってなんかあったか…?
フレデリックと過ごす時間が増え、以前よりは世間の記念日やイベントなどにも考えを巡らせるようになった辰巳である。が、十二月十二日という日に思い当る節はなかった。
となれば、日本人には馴染みのない何かの日なのだろう。そうなると辰巳にはお手上げである。
「今日の何が特別なんだ?」
お手上げだと、辰巳は外側に向けて置かれたソファへと腰を下ろし、テーブルに置かれた花束を取りあげる。
「今日はダーズンローズデイ《Darzen Rose Day》だよ」
そう言って、隣へと腰を下ろしたフレデリックは辰巳の肩へと頭を乗せて深紅の薔薇を指差した。
「この十二本の薔薇にはそれぞれ意味があるんだ」
「意味?」
花言葉とか、そんな話だろうかと辰巳が思っていれば、フレデリックは薔薇の花を一本一本指し示した。
「感謝、誠実、幸福、信頼、希望、愛情、情熱、真実、尊敬、栄光、努力、永遠」
「はぁん? ああ、そういや結婚式で聞いたことあったな…」
「元はブーケ、ブートニアが由来でもあるからね。十二本の薔薇を集めて作ったブーケを、誓いとともに相手に渡すんだよ。その中から一本を選んで胸もとに挿したものがブートニアと呼ばれるものだね」
フレデリックが言えば、辰巳はふっと小さく笑い、薔薇の花を一本抜き出してみせた。
「だったら、お前にはこれだな」
すっと胸元に挿されたのは、フレデリックが十一番目に指した薔薇。
「努力…?」
「お前は、最初っから何でも出来た訳じゃねぇだろ」
くしゃりと金色の髪を撫でながら言われてしまえば、フレデリックに返す言葉はなかった。否、言葉が出ない。
――参ったなぁ…。
幸福でも、愛情でも、情熱でも永遠でもない。努力。それはフレデリックにとって予想外で、だが一番欲しかった言葉。
「キミは本当に…」
「ああ?」
「世界一僕を驚かせるね」
だがしかし。
「まぁ、それが俺には一番必要ねぇしな」
「っ…な!!」
フレデリックの口から奇妙な声が漏れたのは、致し方のないことだったろうか。
「あぁ、でも相手に送るってんなら、それじゃあねぇな」
そう言ってあっさりとフレデリックの胸もとから薔薇を引き抜いてしまった辰巳は、再び花束から抜き出した別の薔薇と挿し替えてしまう。
それは、フレデリックが一番最初に指差した”感謝”の薔薇。
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