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まぶたをゆっくり開けると、そこは薄暗い廊下だった。廊下には等間隔でドアが並んでおり、すぐ目の前にあるドアの上には「手術室」という表札がかかっている。どうやらここは病院のようだ。
廊下に並ぶイスの一つに、女性が座っていた。青ざめた表情をしており、じっと下をうつむいている。それは、恋人の沙希だった。
彼女とけんかしたのは昨日、もっと言えば数時間前のことだ。仕事が長引き、日付が変わりそうな時間に、俺の家、つまり彼女が同棲する家へと帰った。彼女は俺の姿を見るなり、気遣うような言葉をいくつもかけてきた。しかし、疲労とストレスに侵されていた俺は、その言葉の全てがうっとうしく感じ、無視していた。
しだいに彼女の機嫌は悪くなり、今度は俺に対する不満をぶつけてきた。最初は相手にしなかったが、彼女の悪口もエスカレートし、しだいに腹が立ってきた。
気づくと、床の上に彼女が倒れていた。呆然とした顔をしており、左の頬が赤くはれていた。俺の右拳が、いつのまにか強く握られていて、じりじりと痛んでいた。足が震えだす。泣きじゃくる彼女を置いて、俺は家を飛び出した。
人気のない夜の街をひたすらに走り続けた。通行人に怪訝な目で見られたが気にしなかった。しばらく走ると息が切れ、足を止めた。ひざに手をつき、ぜえぜえと息をする。目の前にビルが立っているのに気づいた。ビルの横に頼りなげについている非常階段は鍵がかかっていたが、古く、朽ちていて、すぐにはずれた。引きずるような足取りで階段をのぼり、屋上にたどり着いた。そして、そこから……。
「沙希」
廊下の奥から一人の男が駆け寄ってきた。亮介だった。彼は大学のサークルの友人だ。沙希も同じサークルだったため、俺と沙希の共通の友人でもある。
沙希は亮介の存在に気づき、ふっと顔を上げる。
「亮ちゃん……」
「幸二は? 今手術中か?」
「頭を強く打っていて、意識もずっとなくて、お医者さんは、このまま助からないかもしれないって」
「嘘だろ。何でこんなことになったんだよ」
亮介は顔をゆがめ、髪の毛をかきむしる。
「私のせいなの」
彼女がぼそりとつぶやく。
「何言ってるんだよ」
「幸ちゃんとけんかしたの。幸ちゃん、ずっと仕事で帰りが遅くて、私がそれに文句を言ったらケンカになって」
「そんなの、よくあることだろ」
「それで、私、死んじゃえ、って言ったの。幸ちゃんなんか死んじゃえばいいのに、って」
「……」
「ずっと幸ちゃん、仕事で悩んでいたの。それで思いつめていて。なのに私、もっと相手してよとか、子供みたいなことばっかり言って、さらに幸ちゃんを追い詰めて」
「考えすぎだ。お前のせいじゃない」
「今日は、付き合ってちょうど五年目の日だったの。幸ちゃんが好きなケーキを買ってきてたのに、一緒に食べるはずだったのに、それなのに……」
「バカ、幸二は助かる。それでケーキでも何でも食べればいい」
彼女の目から大粒の涙が流れ始めた。
「幸ちゃん、死なないでよ」
彼女はひざに顔を埋め、大声で泣き始めた。亮介は何も言わず、ただただその場に立ち尽くしていた。
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