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「いらっしゃいませ」
若い男の声が耳をつく。どうやら居酒屋に来たようだ。店の時計は十時を指していた。そのためか、店内にはまばらにしか客の姿がない。壁に掛けた日めくりカレンダーを見ると、一週間前の日付が書かれていた。
一番奥の席に見覚えのある顔があった。前田明人、俺の会社の部長だ。その顔を見て、腹の底から怒りが湧いてくるのと同時に、思い出したくない記憶が蘇ってくる。
前任の部長が入院し、彼が部長の役職についたのは半年前のことだ。彼は厳しい人間だった。いや、ただ厳しいだけならいいのだが、明らかに俺だけを目の敵にしていたのだ。小さなことにまでぐちぐちと言われ、少しでもミスしようものなら、すぐに怒られた。周りの人間は誰も助けてくれない。自分に矛先が向かなければ良い、そういう考えだろう。俺がスケープゴートになってくれて安心しているようでもあった。俺も逆の立場なら同じようにするだろうから、恨みはない。恨んでいるのは部長だけだ。
前の部長が戻ってくるまでの辛抱だ。そう思い耐えていたのだが、前任の部長は体調が思わしくなく、そのまま退職し、彼が正式な部長となった。数年は、この部長の下で働かなければいけない。そう思うだけで、目の前が真っ暗になったように感じた。
「いらっしゃいませ」
店の入り口が開き、男が入ってきた。俺はその顔を見て、自分の目を疑った。社長だった。しかも、部長の席にまっすぐに向かっているではないか。
社長が席に着くと、二人とも和やかに会話している。役職の差もあるが、温和な社長と、ふだんから気性の荒い部長が二人で話しているのは違和感があった。
「いやあ、こうやって前田君と飲むのも久しぶりだな」
社長は出された焼酎を控えめに飲み、ゆっくりと話し始める。
「そうですね。私が子会社に出向して以来じゃないですか」
部長は、ジョッキのビールをわずかに飲んでから言った。社長相手だから当たり前だろうが、彼の表情や態度は謙虚に見えた。いつも俺を般若みたいな顔で怒る時とは大違いだ。
しばらく話は、会社の昔のことや得意先のことで盛り上がっていた。途切れなく話す二人を見ていると、久しぶりに会った先生と教え子が、お互いのことを語り合っているようでもあった。
「最近、ある若手社員が、ある部長さんにことごとくいじめられている、という話を聞いたんだが、知っているかい」
その言葉に、部長は「ああ」と、わずかに笑みをこぼしながら言った。
「北野幸二ですね。とことんいじめていますよ。ある部長さんはね」
社長は、はっはっは、とアニメのようにわざとらしく笑う。
「そうか。最近、鬼の前田もおとなしくなったと思っていたのだが、またやる気になったわけだ」
「やめてください、そのあだ名は。もう何年も前のことですよ」
「君がまた力を入れだしたってことは、その男は君のお気に入りってことかい」
部長は目を丸くしたが、やがて「そうですね」と吐息のような声を漏らす。
「久しぶりに、骨のあるやつなんですよ。おそらく、ここ十年入ってきた人間の中では一番です。部下の情けなさには、がっかりしてばかりだったから、少し嬉しいんですよ」
前田が自信ありげに言う。彼の言葉の一つ一つが、俺の胸を熱くさせた。
「ほほう。だから、いじめちゃうと、そういうわけだな。小学生が好きな子にちょっかいかけるみたいなものか」
「そうじゃないですよ。あいつには、今のうちに苦労させてやりたいんですよ。苦労させて、力をつけてやりたい。今はかなりきついでしょうが、このプロジェクトが終わる頃には、相当な実力が付いていると思います」
「はは、言うじゃないか。でも、もし彼がいじめに耐えきれず、会社を辞めるって言い出したらどうする?」
「その時は、それまでの器だったということで諦めます」
「じゃあ、もし飛び降りでもしたらどうする」
「その時は……」
部長はすっと目を閉じる。
「俺もあとを追います」
「はっはっは」
社長が口を大きく開けて笑う。
「いやあ、君にそこまで気に入られるとはな。北野君とぜひ話をしてみたいな」
「いつでもどうぞ。きっと、どっかの部長のせいで、死んだような顔をしているでしょうけどね」
二人は同時に立ち上がり、レジへと向かう。
「また飲みたいな。今度は北野君も一緒に」
「分かりました。北野は嫌がるでしょうけどね」
そう言って二人は店の外へと姿を消した。
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