はじめ

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そこは俺の実家だった。働き始めてから一度も帰っていなかったので、三年ぶりに見ることになる。しかし、俺が家を出た時と違い、壁も床も家具もきれいで、新築のにおいがした。  リビングのソファ、そこに父がいた。しかし、どこか違う。若いのだ。自分と同じくらいの歳だろうか。髪の毛はふさふさだし、顔にもつやがある。だが、その表情はどこか疲れているように見えた。  その横には女性が座っていた。どこかで見たことがある顔だ。どこだろうか。記憶の中を探っていくと、すぐにピンと来た。母だ。遺影でしか見たことのない、母だった。目の前の母は、笑顔のまま動かない写真の母と違い、今まさに生きていた。 「そろそろ洋服も買わないと行けないね。あとはベッドも必要だし、オムツもいるし。あとは……」  母が嬉々とした表情で語っている。彼女の腹部を見ると少しだけ膨らんでいた。ということは、あそこにいるのは俺、ということになる。  しゃべり続ける母に対して、父は反応が薄く、相槌を打つだけだった。 「そうだ。ミルクも必要よね。もちろんほ乳瓶もいるし、それから……」 「香奈恵、話があるんだ」  母は笑顔のまま、なあに、と子供のように聞く。 「今日、医者と話をしたんだ。子供と、君のことについて」  父は床に深刻な顔を向けたまま、しゃべり続ける。 「子供を産めば、君は命を落とすかもしれないんだ」  その言葉に、母の表情が固まる。部屋の空気も、まるで時が止まったかのように凍りついた。 「前の流産が原因らしいんだ」  母の顔が下を向く。さっきまでの明るい表情がみるみる曇っていった。 「子供が無事に生まれる可能性は五分五分、君が助かる可能性も五分五分。どちらも助からない可能性もあるということだ。堕ろすなら、もう時間がない。俺には、どうするか決める権利はない。君の言うとおりにするつもりだ」  部屋に静寂が広がる。まるで酸素が奪われてしまったかのように空気は重かった。 「私、産むよ」  沈黙を破り、母が口を開いた。その言葉に、父はゆっくり顔を上げる。 「子供は、何があっても産むよ。だって、半分は助かる確率があるんでしょ。でも、堕ろしたら絶対に助からないじゃない」 「ああ」 「ねえ、流産の意味って知ってる? なんで流れるって字を使うか」  彼女の言葉に、父は「いや」と首を振る。 「流産した子供はね、お母さんの中の汚い物も一緒に流してくれるんだって。だから、流れるって字を使うの」 「それは、知らなかったな」 「私ね、前の流産で不安だったの。私がこの子を殺したんじゃないかって。でも、その話を聞いて楽になったの。あの子にも意味があったんだ。私のために生まれてきてくれたんだって。そして、この子も……」  母は右手で自分の膨らんだお腹をさする。 「一つだけお願いがあるの」  母がゆっくりと口を開いた。「なんだい?」と父が尋ねる。 「もしね、この子を産んで、私が死ぬようなことがあったら……」 「君は死なないよ」 「いいから聞いて。私が命を落としても、この子に、私が死んだ原因を言わないでほしいの。この子のせいで、私が死んだなんて、絶対に言わないで。それで責任を感じさせたくないの」 「分かった。もちろん、もしもの話だけどな」 「ありがとう」  母がわずかに微笑む。父の顔にも、少しだけ光が戻っていた。 「この子、どんな子になると思う」  母が言った。 「そうだな。きっと君に似て、頭も良いだろうから、弁護士や研究者になるんじゃないかな」 「ううん。きっとあなたに似て、みんなの人気者になるだろうから、アイドルや俳優になるわ」 「どうだろうな。何にしろ、みんなの役に立つ人間に成長してほしいな」 「うん。そうね。優しくて、まっすぐで、強い人間になってくれたらいいな」  二人は微笑み、ずっと見つめ合っていた。  視界がぼやけてくる。目の前の光景が、しだいに白い光の中に溶けていった。
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