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日常
あなたに、ふたつ、選択肢をあげる。
どちらを選んでも、それはあなたが決めたこと。あなた以外誰も責任を負えないわ。
目が覚めた。
しばらく天井を眺める。
寝汗でシーツがぐっしょりだ。
時計の針は朝の五時を指し、陽光はカーテン越しに漏れてくる。
シーツと下着を洗濯機に突っ込む。
あとはスイッチを入れるだけで、洗濯機が勝手に洗ってくれる。
ベッドを背当て代りに、床に座り込む。
スティック状の電子タバコに手を伸ばす。
部屋の壁の掃除が面倒なので、これにした。
全くにおいがない訳じゃないけど、まぁ、ましってことで。
冷蔵庫からアイスコーヒーのボトルを取りだし、グラスに注ぐ。
タブレットの電源を入れ、SNSアプリを呼び出す。
今日の依頼は、ない。
その事に対する安堵と、欲求不満な気持ちが交差して、微妙なグラデーションが心の内に描かれる。
学校は高台の上にある。
そこに上がる、どこまでも続く灰色の階段を登り、登り、登る。
登りつめると、燃えるような夕暮れ空に、細く立つ校門と、影のように昏い校舎がそびえたつ。
ここはいつもそう。時間が経つことがない。
来る者を拒むように風が吹く。
セーラー服の襟が、その風を孕んで、はためく。髪も。
校門がかしいだ音を立てて、開く。中に入ると、バターン! とものすごい音を立てて閉まる。
まるで、もう出さない、と言っているよう。
校舎の中に入ると、影のように生徒が現れ、さざなみのような誰かの話し声が耳を障り、錆びた刃物でつき刺すような視線を感じる。振り向くが誰もいない。
「きららちゃーん、おっはよー」
能天気な声。その声のほうを向くと、いたのは学校で隣の席のタグチという生徒だ。
裏の“声”は結構アコギだが、外面はいい。「今日ぉ、お昼一緒しよ」
「んー」
「昨日、ナホがさぁ……だってさ。それでさぁ、私も……」
「んー」「お弁当のおかずさー」「んー」
ほとんど話を聞いていないのには、気が付いていない。
要は、私は彼女の感情のごみ捨て場って訳。
教室に入り、鞄の中の教科書とノートを取り出す。
ほぼ空になった鞄は、机の左側に引っ掛ける。
朝の点呼が始まった
「アサクラ・モミジ」「はい」「イノウ・トウカ」「はい」「クスノキ・トモヒロ」「はい」「ササクラ・エイゴ」「はい」「タグチ……」「はい」「ヤトウ……」「はい」
世界が無音になる。どこに自分がいるか分からなくなる。
ワタシは、だれだっけ。いつへんじをすればいいのだったっけ。
「……ニノミヤ」
「……」
「ニノミヤ・キララ」
「……」
「ニノミヤ!」
腕に感触。人差し指でつついているのは、タグチだ。我に返る。
耳に突き刺さる他人の声、自分の名前。
「ニノミヤ・キララ!」
「……はぃ」
ダルい。何度も名前を呼ばれるのは、ダルい。
「今回は大目に見る。次回からは気をつけるように!」
「……」
「返事は⁉」
「……はい」
空気がいやな風に揺れ、緊張する。空間がゆがみかけている。いけない。
「んー、もうきららちゃんってば」
ふっ、と張り詰めていた空気が緩む。
横を見ると、タグチがニヤニヤしていた。
「昨日、夜更かししちゃったんじゃない?」
「あ、彼氏とか」
「そんなことないか、きららちゃん、まじめだものね」
「いやいや、意外と大胆だものね」
「あ、ゲームとか?」
相槌を打つ暇すら与えず話しかけてくる。
「……よくしゃべるね」
「えー、そうかな。うちの家族の中ではおとなしいほう」
「ちょっと、好奇心強めみたいな」
「コミュニケーション能力高いみたいな」
「そんな感じ?」
音を立てずにため息をつき、返事をする。
「そうかもね。いずれにしろ、さっきは助かった」
タグチはうれしそうにニヤニヤする。
周りの誰かが、舌打ちをした。
ジャマをするな、とばかりに。
改めて自分の身が危うかったことを実感する。ここでは気を抜いてはいけないのだ。そうでないと。
「では続ける。ヨウダ・カツヤ」「はい」「ワクイ・テツオ」「はい」
点呼の声を聞きながら頭を切り替える。恐怖で頭をいっぱいにしてはいけない。
未来に起こるかもしれない出来事を恐れることは、悪いことじゃない。
でも、思いが過ぎるあまり、起こらなくてもいいことを起こしてしまうかもしれない。
今は、目の前のことを冷静に対処しなくてはいけない。
私は、今は学生で、学校に登校することが、ここにいるための規則になっているのだから。
点呼は続く。放課後になるまで。
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