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何も、できなくて。
その日、伊藤さんはクラスの話題の的だった。
それもそうだろう、どこかのドラマで見るような告白の『ヒロイン』なんだ、それまで存在も認知していなかったようなやつまで伊藤さんに話しかけて、「田澤とはデートしたの?」とか、もっと無遠慮な言葉まで投げ掛けていた。
やめろ、やめてくれ、伊藤さんは、そんなの興味ないんだ。知らないだろう、伊藤さんには夢があることも、そのために休みの日も漫画を描いて、絵を描いて……
『…………っ、あ、ご、ごめん。まだ描いてないんだ……、もうちょっと、待っててくれる?』
…………。
もう、伊藤さんを解放してあげろよ、じゃなきゃ伊藤さんが自分の時間を持てなくなる。机に突っ伏して時間を潰すだけの休み時間は、ひどく長かった。
昼休みも、いつもなら来ている図書室に来なかった。教室に戻って、彼女が田澤と何か話していたらしいことを知った。
「じゃ、また土曜空けといてな!」
なんだよ、なに浮かれた声出してんだよ、もうやめてくれ……そう思いながら伊藤さんの方をちら、と見ると、どこか心ここにあらずに見えて。
胸の奥に、熱く溶けた金属を流し込まれたような気持ちになった。もちろん、午後の授業なんて手にはつかなくて、指された箇所で何度も間違えてしまった。
「ごめんね、今日約束があるから」
「そっか……、じゃ、仕方ないよね、じゃ、また夜にね」
そう返した僕は、どんな顔をしていただろう。
梅雨近い夕方の空はどこか底知れなくて、その重さに押し潰される錯覚さえしてしまう。
あ今度の土曜日が土砂降りになればいいのに。
そんなことを願ってしまった報いだろうか、その夜、伊藤さんとの通話が繋がることはなかった。
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