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父のベース
俺は、幼い頃から何故か低い音に惹かれていた。
どんな曲を聴いても、耳に1番に入るのはベースの音。和太鼓のように全身に響くようなあの音が好きだった。
***
高校を卒業してから30年程経ったが、俺の低音好きは変わらなかった。俺は公務員のそこそこ偉い立場になり、2人の娘も上の方がようやく中学生になった。特に意味はないが、俺はこの趣味を隠し続けていた。
あ、ベース。
妻と買い物に出掛けて、楽器屋の前に通り掛かったら、そこにはベースが飾られていた。
……いいなあ。
「なあ、ちょっと楽器屋に行っていい?」
「いいけど……何か買うの?」
「ベースだよ」
妻は不思議な顔で俺を見ていた。
その日、俺はベースを衝動買いした。
「父さん、それ何!? ベース!?」
「そうだよ」
「そうなのよ。急にベース買うなんて言うからびっくりしちゃったわ」
家に帰って運指を練習していると、下の方の娘がベースに興味を示してくれた。目がキラキラと輝いている。妻はやれやれとした表情をしていたが、俺は気にしなかった。
「結音もやってみるか?」
「やる!」
「おーし、いいぞ。じゃあベース持って、この弦の上から3番目がドで……」
ふんふん、と言いながら上のドまで弾いていく娘の結音。さすが小学校の音楽バンドに入ってるだけあって、楽器に対する興味と覚えが早い。
「父さん、かえるの歌出来たよ!」
「お、すごいじゃないか!」
***
それからさらに5年後、俺は単身赴任のために家を離れることになった。ベースは近所迷惑になりそうだったので、泣く泣く置いていった。
あのベースも災難だったな。いきなり買われて置いていかれて。楽器に意思は無いだろうが、元気にしてるだろうか──。
***
「こんにちはー! 6'sです!」
ワアアアッ、と小さなライブハウスから歓声が上がる。真ん中で司会を務めるギタリストが場を盛り上げていた。
「次に演奏するのはベースがメインの曲でーす! これはベーシストの結音が作ったんだ!」
「うん。父さんが今回来てくれるってことで、急遽作った曲なんです」
「結音のベースって、たしか元はお父さんのやつなんだっけ?」
「そう。父さんは低音が大好きでね、ベースを弾くことが夢だったんだって」
「結音のお父さんに届くといいですねぇー。それでは聞いて下さい! 『father's bass』」
ベースのソロから曲は始まり、ギター、キーボード、ドラムが寄り添うように重なり、ライブハウスの空気を作り上げたところでボーカルが入る。
ふと結音がステージの奥に目を向けると、最後列にいる1人の男性が、目に涙を浮かべているのが見えた。
最初は高校の文化祭だった。有志バンドにスカウトされて、ドラムをやろうと思ったら既に枠が埋まっていたから、ベースをやった。でも自身もベースの低音にどんどん魅了され、気が付いたらバンドを結成していた。
「そのベースは結音にあげる」なんて言われたときには、父の夢まで託された気がして、受け取ったベースは重かった。
でも、今は何だか軽いな。
すっかり弾き慣れたコードを奏でる。ライブハウスのボルテージは最高潮だ。
「(父さんのベースも夢も、あたしがちゃんと引き継いだからね!)」
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