第1章

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「伊藤さ~ん、頼んでた件できた~?」 同じ営業課先輩の山野美香だ。このところ、取引が順調で職場は活気に溢れていた。花音たち営業事務の仕事も増えている。 「あ、はい。これです」 花音はUSBを美香に渡した。 「助かった~。ちょっと手一杯なんよ。あ、後これも頼んでいい?」 「あ、ちょっ……」 山野は書類を花音の机に置くと、自分の席に戻った。 花音は山積みの書類を眺めて、小さくため息をつくとまた入力を始めた。 大阪の御堂筋本町に本社を置く中堅の商事会社西山物産、海外事業部第三営業課。伊藤花音の職場だ。 入社して3年になるのに、未だにみんなに溶け込めないでいる。いつもどこかポツンと一人浮いてしまっている。 取り柄なのは真面目で几帳面なことくらい。課長にも同僚にも信頼されていて、重宝されていると……自分では思っている。 「あの~、すみません。伊藤さん、この報告書、課長に見せる前に確認して欲しいんですが……」 「え?」 花音は「また?」と言う言葉を飲み込んだ。彼は小林幸雄。花音の一年後輩で雑務をやっていて、まだ営業に出ていない。 西山物産では、男性社員は入社して3ヶ月で取引先回りから初めて、営業の仕事をするのに彼はまだ内勤だ。こんなところを頼りなく思われているのかも知れない。 小林はいつもニコニコ、ペコペコして、黙々と仕事をこなしている。 気の弱そうな彼が、先輩たちにいいように使い走りさせられているの見たりすると、自分とよく似てるなぁと思ってしまう。 「はい。分かりました」 花音が書類を受け取ると、「有難うございます」と嬉しそうに小林は頭を下げた。その後ろ姿を見て女子社員たちがクスクス小さく笑っている。 小太りで背が低くニキビ跡の目立つ小林は、女子社員から物笑いの種にされていた。 花音は書類に目を通してみるが、案の定、直すところは見当たらない。きちっとしたものだ。簡単なメッセージを付けて小林の机に戻しておく。 自分のデスクに戻る途中、課長に声を掛けられた。花音は残業かなと思った。 「伊藤さん、今日、忙しい?」 「大丈夫です」 「悪いけど、今日も残業頼めるかな?」 「はい!」 「いつもすまないね」 「いいえ」 「接待でこのまま出るけど、よろしくね」 「はい!」 今日は金曜日だというのに、残業を頼まれてしまった花音。土曜日は、事故の後遺症で県外に療養している母に会いに行くから本当は早く帰りたかった。
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