魔人の花嫁

序章

　イリスの頬は、血に濡れていた。
　美しい銀の髪は縮れ、白い肌に無数の傷がついている。
　しかし、体の痛みより苦痛なのは、腐臭のような奴らの体臭だった。呼吸をするのもためらわれるほどの臭いが血臭に混じり漂っている。
　だが、躊躇する余裕はない。『門』が開いている。
　時がたてば、さらに戦況は悪くなる一方だ。
「イリスさまっ！ お戻りください！」
　遠くから聞こえる、兵の声。
　しかし、イリスは答えようとはしない。
　退路は既に絶たれていた。イリスと兵の間には、新たに現れた妖魔の姿がある。
　それに、この先には兄のラキサスがいる。イリスが退くということは、最前線で戦う兄を見捨てることだ。
「通してもらうわよ」
　イリスの前に立ちはだかる目の前の妖蛇に、いわゆる『知能』はない。あるのは貪欲な食欲と破壊衝動だけだ。
「炎よ」
イリスは、妖蛇のぬめぬめした頭を見据えた。
「天より使わされし、蒼き炎よ」
　全身の気を指先に集中する。
「闇より生まれしものを焼き払え」
　イリスの指から蒼い炎が放たれて、妖蛇の身体を焼く。
　肉が焦げるいやな臭いがたちこめた。苦痛にのたくりながら、妖蛇は大地を長い尾で叩く。すると、ぐにゃりと空間がゆがみ、イリスの足場が波のように振動した。
「なっ？！」
　思わず足を取られ、イリスは膝をつく。その隙を逃すことなく、妖蛇は、口から毒液が放った。
「あぁぁっ」
　革製の肩当が焼け溶けていき、さらには、肌を焼く。
　それでもイリスは、苦痛に顔をゆがめながら体勢を立て直した。
「まだよ。私は兄さんのところ行かなければ」
　くじけそうな自分に言い聞かせ、その瞳に妖蛇を捕らえる。
　全身が悲鳴を上げていた。
　イリスは深く息をしながら、魔封じの剣を抜く。清浄な刀身の輝きが辺りを照らす。
「我が身に流れし、聖なる血よ」
　幼い頃より叩き込まれた封じの技を、イリスは生まれて初めて実行した。
「その血の契約により、我、乞い願う」
　刀身が輝きを増した。体中から力が剣を握る腕に向かって流れていくのがわかる。
「闇より出でし彼奴らを骸とせん」
　言葉を紡ぎ終えると、イリスは大地を蹴った。
「はあーっ」
　気合とともに、剣を妖蛇の頭に突き立てる。そして体から脈打って流れる力のすべてをそれに注ぎ込んだ。
　ぐああぅ。
　声にならない絶叫が響いた。妖蛇の体がどうっと、大地に倒れる。辺りの空間の歪みが消え、やがて、静寂が戻ってきた。
　イリスは呼吸を整える。体がふらつき、立っているのがやっとだ。
「そんなに何回もできないって聞いていたけど、本当だわ」
　全身から力が抜けてしまったようだ。
　魔封じの技は体力の消耗が激しい。訓練中に何度も言われたのは、最後の瞬間まで使わない、ということだった。
「だからと言って、出し惜しみして、負けるわけにもいかない」
　真の敵は、この先にいる。イリスは足を早めた。疲労は極限に達しようとしていた。進めば進むほど、濃い瘴気が立ち込めている。
「兄さん！」
　視界の先に、青い肌の人ならぬ魔性と、兄の姿を認めた。
「来るな！」
　ラキサスの怒号にも似た悲痛な叫びに、イリスは思わず足を止める。
「魔人だ。来るな！　イリス」
　ラキサスは、苦悶に顔をゆがめ、膝をついている。身体中、どす黒い血に染まり、傷だらけだ。
　そんな兄を空中から面白げに眺めているモ(・)ノ(・)がいる。暗い藍色の髪が鈍い光を放つ。闇色の衣服はこの世のものではない滑らかな材質で、四肢から流れ出る瘴気になびいている。人ならざる青い肌──魔人である。作り物めいた整った顔立ちは、その美しさゆえに、見るものに恐怖を掻き立てた。凍り付いたようなその銀の瞳は、高く残忍な知性の光を宿している。
「ほう。これは、なかなか」
　魔人の視線がイリスに注がれる。全身が凍り付いたかのように動かなくなった。
「ここまで出向いた甲斐があったものよ。その気の強そうな瞳、その強大な魔力。我が花嫁に相応しい」
　愛の告白に相応しくない酷薄な瞳に、執拗な執着だけが見える。魔人はにやりと嗤うと、イリスに向かって指をむけた。目に見えぬ鎖がイリスの身体を縛り付け、ずるずるとその指に引き寄せられていく。
　イリスはなすすべもなく手繰り寄せられながら、あることを思い出す。力ある魔人は、人界の女を連れ去ることがある。魔人が欲するのは女の魂だ。その後、その魂がどうなるのかは、誰も知らない。ただ、確かなことは、目をつけられたら、たとえ肉体が滅んでも魔人から逃れるすべはないということだ。逃れるには、魔人そのものを倒すしかない。
　イリスは意識を集中した。
「わが身に流れし聖なる血よ」
「イリス！無茶をするな！」
　イリスの意図を知り、ラキサスが叫ぶ。しかし、その声はイリスには届かない。全身全霊をただ一度のチャンスにかける。
「その血の契約により、乞い願う」
　呪文とともにイリスの身体が金色に輝いた。
「わが身よ。炎となり魔を撃て！」
　イリスを縛っていた見えぬ鎖を辿るように金の焔が魔人に向かって走った。
　不意を突かれ、金の炎が魔人を焼く。
「くぅ、生意気な」
　魔人は悔しげに顔をゆがめ、自らを焼く炎を振り払おうとした。
「異界の門よ、開け！」
　その隙をついて、ラキサスは封魔の印を結び、魔人のいた空間に異界の門を開けた。異界から吹き込む瘴気に大気が歪む。
　ラキサスは抜刀して、イリスと魔人をつないだ金の焔立つ鎖を断ち切り、封魔の印を大きく斬る。
「異界の門よ、閉じよ」
　門が閉じる一瞬前に、魔人を焼いた炎が消え、魔人の哄笑が大きな波動となって、イリスの頬を撃った。焼き刺すような痛みがイリスを襲う。
「気に入ったぞ。我が名はレザル。必ず迎えにこよう。我が花嫁」
　意識が遠のいていくイリスの耳に、甘くささやくような魔人の声が残された。