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❁ Ⅰ ❀✿❁❀ ✿
今年は、気候も不安定で、季節に関係なく、暑かったり、寒かったり。これでは、何だか、気象予報士さんの仕事もやり難そうだし、外で作業をする仕事の人たちにとっても大変で、建設関係では、工期の遅れなども心配だ …
そんな年の、まだ、寒さも厳しくなる前の11月のなかば、ちょうど、髪を揺らすくらいの、斜め上から寄り添ってくる乾いた風は、
派手過ぎないようにと意識した、長袖の艶無ブラック無地のビジネスパンツスーツ、秋冬用ジャケットのボタンを二つともしっかりととめて、
車道とはっきり区別するようにインターロッキングレンガが敷き詰められた歩道を、ハイヒールでカツ、カツと足早に歩き続けるYkoには、汗をかかずに進んで行けるのが心地よく、嬉しい。
Ykoは、通勤通学の人々とは反対方向に、駅からどんどん離れていく。昨夜、仕事内容を連絡してきた父親みたいな新藤さんと長電話をしながら、
PCをひらき、すでに何度か入っていた、ほかの現場の進捗状況の情報などももらい、パンをかじりながら、長電話しながら、PCのmapで新しく見つけた、現地に向かう近道になる川沿いの遊歩道を勢いよく歩幅を広げて歩いている。
「 この時間は、結構、
ワンちゃんが散歩してる…」
現地に向かう途中でも、顔を下に向けて自分の足元を見るのではなく、実際に自分が歩くこのタイミングで、
幼稚園、小学校などの教育施設や、病院や、消防署、役所などの公共施設に向かうルート確認や、街並みもチェックして、お客様へのアドバイスに活かそうと、
まだ眠たそうなその眼をシバシバさせながら一生懸命に左右に動かしている。
けれどここでは、チョコマカと何度か擦れ違う散歩中のワンちゃんたちに癒され、朝早くから動き出した働き者の人たちとも、
そんな、爽やかな時間と、マイナスイオンを共有しながら歩けたので、5時に起き、6時に家を出たYkoの眠気もおさまりスッキリしてきた。
この先、こどもたちにも嬉しい緑が多い自然の丘陵を生かした公園も点在する町に、新築のファミリータイプのマンションが建った。
東京からみて西の郊外の、
都心までの時間はざっと90分ほどの
ターミナル駅から、
Ykoが歩いて14分のところで、
今日から2週間、
このマンションを購入したお客様向けの内覧会が行われる。
「 いいですか、絶対にお客様を
怒らせないようにしてください。
もし、怒らせたら、
あなた達の仕事は無くなります。
お客様対応には十二分に
気をつけて下さい !」
朝から厳しく、
皆が一瞬で集中するように話しをする。
接客をする者として、
お客様に失礼のないように清潔感のある身だしなみ、この者のドレスコードは、派手過ぎない無地のダークグレーのビジネススーツ。
耳にかからないほどにカットされた髪も、けっして乱れないようにしっかりと固めた、30なかば? のこの現地責任者は、なおも一人一人にしっかりと伝わるように、皆の前を、顔を確認しながら話を続ける。
… わざわざそんな事を朝礼で謂わなくても、
この仕事をしていれば誰にだって分かるのにね。
それでも、毎回このようなことを皆に伝えるのは、内覧会にお越しいただいたお客様にご満足いただけなければ、このマンションの引き渡しが、上手くいかなくなり、「スミマセンデシタ」とYkoが頭を下げても、そんな事ではおさまらなくなるからだ。
誰もが夢見るマイホームの現場では、こうして、大袈裟なようだが、スタッフの完璧な接客対応が求められる。
まだ、養生シートを剥がしたばかりの、
まるで都内の洗練されたホテルの様な、
上質の、メインエントランスフロント
横には、
選りすぐりの住宅関連の新商品などのパンフレットが、お客様から手を伸ばし易いようにきちんと並べられている。
… お客様からのリクエストには、
必ずお応えする …。
と、それには、本日、ここで仕事をする者の気合の入れようが感じられ、いつもとは違う緊張感がYkoの背筋を伸ばす。
もうすっかり切り替わった仕事人としてのYkoは、
エントランスの仕上がりをチェックしながら進んで行くと居心地の良いエントランスロビーで足をとめた。
ここは、自然の陽の光は入りすぎないように、採光は計算されて開口部は設けられている明るすぎない空間だ。
重厚であって、
柔らかいトーンのブラウンカラー、肌触りは優しいソフトな革張りの応接セットは、ロビーの広さに合わせていくつか配置され、テーブルにはアクセントカラーになる、
今日という日に相応しい、
それぞれが、そこでちゃんとお客様をお迎えする役目を果たすように、精一杯明るい花たちが目を惹き、けれど、あまり接客の邪魔にならないように小さくまとめられている。
短い期間の臨時に設けられた接客ブースでさえも、ラインを揃えて美しく並ぶ。本体工事完了から、本日までにインテリアも完璧に仕上げられた。
先ほど終了した朝礼には、
集合したスタッフメンバーの、受付さん、インテリアオプションのアドバイザーさん、設備関係会社の担当者さん、施工担当さん、営業担当さん、アテンドさんなどが、ざっと、五十人ほどが並んでいた。
この朝礼ではそうしたスタッフ間の伝達事項の確認や、本日のご来場数などの状況説明や、物件についての重要事項の説明確認などが行われる。
そのスタッフ達のかなり後ろの方で、
背が小さいので背伸びをし、大きな目をキョロキョロさせながら、何とか話を理解しようと前の方を覗き込みながらYkoは並んでいたが、
この仕事を、5年程経験してきたYkoは、その外見、立ち居振る舞いの姿から、お客様や、他のスタッフ間でのやり取りなどでも、本人がその立場に合った話しをしてみても、
「あなたは新人さんなの?」などと云われてしまうこともある。けれども、決して器用な娘ではないYkoは、まあ、おそらく「人たらし」ではないが、「ゆるキャラ」なのか、本人が意識しなくても、何かと周りから支えてもらえるお得な娘だ。
この仕事でも、一緒に働くスタッフの先輩たちに助けられ、今まで何とかお咎めを受けず、無難にこの仕事を続けてこられた。
Ykoは建設・不動産業界の、
人が生活する「住空間」にとても興味がある。5年目になるのだから、仕事にも慣れてきて、そろそろ自分流に要領よく仕事に向かっても良いのだろうが、
仕事先では自分で創ったメガネでは見ることをせず、素直に新しいものを吸収し続けている。建築の難しい勉強は苦手だが、勉強心は常に持っている。
Yko自身は、まだ、この仕事に万全な仕上げの自信があるわけではないが、担当した物件が増えるごとに、少しずつポケットに入れられるアイテムも増えてきた。
今回の様な新築の物件完成後、お客様引渡し前の内覧会では、本体工事中にはまだなかった、新しい、生活に役立つ、給湯システム、床暖房、換気システムなどの住宅設備もどんどん進化していく中で、そんな目新しいものたちが備えられたばかりの時に出会えて、この大きな目を輝かせるし、
これらはどんどん新しいシリーズが出てくるたびに機能も充実していき、システムキッチンや、システムバスなどはカラーセレクトも豊富で家事が楽しくなるポップな面も加味されて、
お客様の趣向でグレードアップされたオプション品もそれぞれに個性豊かで、そこに使われる水栓などの、マテリアルがシャープなデザインも、自分の居場所でしっかりと自己主張するように洗練された顔を持ち、
照明があたると、スポットライトを向けられたようにキラキラと輝きを見せる姿は凛としてYkoはウットリ、と、して …
それぞれのお部屋に入れば、
床や壁の仕上がりの美しさにワクワクし、出入りのドアだけではなく、ウォーキングクローゼットなどの収納部分の扉の取っ手やドアハンドルも、デザイン性の高いものが多くなってきたのに感動する。
ユーティリティールームや、多様な間取りの、インテリアのセンスの良いアクセントを効かせたお部屋を見るのも好きだ。
だから、それらの中にいつも身を置きたくて、もっと、いっぱい頑張りたくて、副業を有意義に計画し、チャレンジできる、自身の勉強になる仕事として、今回のような新築マンションの内覧会の仕事のほか、
ショールームでのインテリアオプション会の仕事、マンションギャラリーでのご案内の仕事など、チョコマカと動き回り、Ykoは貪欲な? カンジでアッチコッチに顔を出している。
そんなにポジティブな内面を持っている、
Ykoは、見た目はいつまでも学生のようだが、それは、元気すぎるとか、キャピキャピしているわけでもないので、
この年齢の割には、良く言えば落ち着いた雰囲気だし、化粧があまり得意ではないのかそこに興味がないのか、真純朴な娘なので、これだって、気づいていないのかもしれないが、
お子様から、ご年配の方にまで、どの年齢層にも寄り添いやすく、この接客の仕事には適役かもしれない。
本人はきっとそんな自覚のない、
素朴な外見と、少しドンクササもあるYkoは、それでも、住まいを扱うこの業界が、高額商品取り扱い業者であるので、そこで働くと、常に緊張感を持ちながら仕事をしている状態であるし、
こうした現地から現地へと仕事場が変わる、常に新しい環境の中では、いつも気持ちをピリッ! とさせて働くのが案外心地良いようで、モチベーションも上がるようだ。
けれども、この仕事の朝は早い。
どの現地でも、集合は朝の
「7時半」だ。
そんなに早く集合した現地では …
まず、その日ごとに、それぞれが持つ、共通の「黒バック」の中に、筆記用具や、メジャーなどの作業ツール、お客様用のスリッパや、きれいなフキン、白手袋などを用意して、
アテンドだけでの朝礼に入り、
この物件での接客の流れの確認をする。
それが終わると、
スタッフ総出の全体朝礼に加わる。
そして、最初のお客様のご来場が、
「9時」なので、それまでに、担当するお部屋の鍵開けなどのチェックもしなければならないし、お客様にとっての必要な物件の特徴を、どのようにお伝えするのかなどの下調べも必要になるので、
それはそれは、
準備段階から実にバタバタな感じだ。だから、ときにはエレベータの到着なんて待っていられないので、
外階段を駆け上がることも、通路を走り抜け、また、階段を駆け下りることも何度だってある。そんなYkoにはパンツスーツがマストなのだが……
「 新藤さん!
ス・ミ・マ・セ・ン、
駐車場、ゲート、重くて
開けられないです。
助けてください!これって、
ゼンゼン動かないです!」
こんなに時間がなくて忙しいのに、
Ykoは敷地の端までチョロチョロとし、まだ、誰にも使用されない駐車場にまで、仕上がり具合の確認に行ったようだ。
この時間は、新藤さんだって忙しいのに、ガタイの良さから、いつもこんなカンジでYkoに頼られてしまう。
そんな、新藤さんはYkoの仕事の大先輩で、まあ、親子ほどの年齢差はあるし、父親みたいに、優しくて、力持ちで、何でも知っていて、Ykoは新藤さんが仕事場にいてくれるとスゴク安心する。
「 オッ!ナンデだよ、
今日は、
駐車場の方は入れないよ…
まだ使用できないから、
鍵も
開けられないんじゃないか?
あ~、そっちじゃなくて、
せっかく外にいるんなら、
アプローチの植栽の変更と、
車止めポールの追加を確認
したら良いじゃないか…」
「 そうなんですね!
ありがとうございます。
図面チェックは、
したんですけれど、
ホントだぁ……
植木の高さ、
変わったんですね!
植えたばかりなのに、
もう、
葉っぱがイッパイで、
常緑樹だし丈夫そうですね!
ポールも増えているし、
この方が良いですよネ、
み~に~きて、
良かったぁ!アッ、
イケナイ、もう、
もどらなくちゃ、
スタンバイ20分前だから、
間に合わなくなるぅ~」
「 マッタク! オマエは、
やることが遅いんだよ!
今、
みるんじゃなくて、朝、
入った時にみておけよ、
今朝、そっちから、
入ってきたんだろう?」
「 ス・ミ・マ・セ・ン、
… 仰る通りです…」
そう、だから、
「スタート時間を10時にしてくれれば良いのに~」なんて、思っていたりもするが……
でも、Ykoは、
お客様の前では、キチンとした身のこなし、ちょうど良い笑顔で、お客様をお迎えする。今日が、お客様にとっての、新しいお住まいに入る記念の日なのだから……
「 おはようございます!
木村様、
お待ち申上げて下りました。
どうぞお進み下さいませ。
ご案内させていただきます 」
受付の横にスタンバイしていたYkoは、
朝に相応しい、爽やかなハリのある声でのご挨拶ができた。お客様に寄り添い、歩く速度もお客様に合わせ、決して背を向けない。
お部屋までのご案内では、1階にある、パブリックスペース、ゲストルームなどの共用施設のご案内やエレベータなどのご案内など、Ykoの完璧なエスコートが始まった。
普段の歩くスピードよりも通路をゆっくりと進めば、お客様はそれぞれが気になるところのご質問もYkoにすることもできる。一方的にご案内するのではなく、少しでも、お客様からのご質問に応える。
お客様のお部屋の階に着き、通路に面したそのお部屋のメーターボックスのご説明の後、程よく、お部屋に入る前のドアの前にお客様ご家族が揃うと、そこで1つの儀式がある。
「 どうぞ、
お客様が、ドアをお開け
下さいませ。一番最初に、
このお部屋にお入りになる
のは、お客様でございます 」
Ykoは、白い手袋をはめた手で、
玄関ドアのハンドルレバーへお客様が手を伸ばされるようにご案内する。そして、お客様に続き、Ykoもお部屋に入っていく……
さぁ、ここからは、Ykoのアテンドは、お住まいの中でと、ステージが移る……
「 Ykoちゃん、お疲れさま。
担当したのは、3件かぁ...
1件当たりが、
2時間くらいだったけれど、
お昼ちゃんと食べられた?」
スタッフの控室に戻ったYkoに、ベテランアテンドでかなり貫禄が出てきた、年齢はYkoよりも一回り上のSが声をかけた。このSは、Ykoにとってはお姉さんのように甘えることができる存在だ。
「 わぁ~、Sさんお疲れさまです。
朝からお天気も良かったので、
通路を歩く時にも、ゆっくりと、
そこから眺められる周りの景色も
お客様に楽しんでいただけました。
今日のお客様は、お時間に余裕が
あった方々が多く良かったです!」
Ykoは、お客様と一緒に楽しい時間を共有できたようだ。本当に、この仕事が好きなことが周りの人間にも分かる。Ykoの内覧会初日は順調のようだ。
この仕事では、Ykoだけではなく、
忙しく動き回るスタッフは多い。
アテンドの接客の仕事は、
お客様の対応時間はその時々で変わる。たとえ一組の接客であっても、1時間もかからずに帰られるお客様や、内容によっては、2時間、3時間、半日、1日とその対応時間も様々だ。
それゆえに、アテンドの休憩時間も約束されたものではない。ベテランで要領よく動けるSでも、今日は、昼食もそこそこに、トイレタイムだってまだとれてはいない。
お客様用の接客ブースとは違い、
この臨時にセッティングされたスタッフ用の控室だってバックヤードなのでけっして良い環境ではない。
人数分の椅子があるわけではないし、食事休憩の時にだって、テーブルがないこともある。
たまたま今日は、ちょうど良く寒くはないが、エアコンなどの設備だってないこともあるので、そんな環境では、これからもっと寒くなる日には、各々での防寒対策は必至だ。
けれど、
朝から自分も忙しく動き回っていた中でも、せっかく、ずっと立ちっぱなしで動きっぱなしのYkoの事を、Sはちゃんと休憩をとれたのかと気づかっているのに、全く気にせずにYkoの頭の中は自分の仕事のことでイッパイのようだった。
「そう、良かったわね!」
この、Ykoの天真爛漫な明るさは、一緒に働くスタッフも元気にさせる。SはそんなYkoをいつも温かい目で見守っている。
「 でもSさん…… 私…
チョット、
悩んじゃっていること、
ア・ル・ンデス…」
今までアニメキャラのように大きな目をキラキラ輝かせ、明るい笑顔を周りに振りまきながら、楽しそうに仕事をしているのかと思っていたのに、
全く予想もできない意外なYkoのつぶやきに、Sは先輩なのに動揺し
「エッ!」と、思わず声が出て、驚きを隠せずYkoの顔をもう一度覗き込み、その表情を確かめた。
「 あのぉ、私……
5年目じゃないですかぁ……
でも、今日みたいに、
ビジネススーツを着ると、
私、それで幼く見えるのか、
何でなのかは?
分からないんですけれど、
作業着を着て、
お客様にアドバイスした時と
同じように 」
「・・・・・」
「 今日も接客で、同じような
シチュエーションでアドバイス
してみると、
お客様の手ごたえに違いがある
ような? 何ていうのかなぁ?」
「・・・・・」
「 私の着ているもので、
お客様の
反応に違いがあるように思えて、
これって、私に、貫禄が無い?
ことなのか? 私のアドバイス
なんかよりも、ユニフォームの
力が強いのか?」
「・・・・・」
「 これが何度かあって、それが、
ショックで、んんん~って、
なるんですケレド ......」
「・・・・・」
Ykoは、
両手で頭を抱え顔を左右に振ってみせた。
もどかしさは、その表情の暗さからも伝わってくる。
まだ、今日1日の仕事が終わっていないのに、このままにしてはおけない……。Ykoの心情に寄り添いながら、けれどもSは、いつもとは違う、Ykoの「仕事人」としての顔を観られたことに、少し彼女の成長を感じた。
「 … そうね、
" ユニフォーム の 力 ” は、
やはり、
どの人にだって同じように、
違いが出ると思うわよ、
私だって感じることもある。
ましてや、
お客様が悪いわけではないし 」
「 はい …」
「 それに ...
ここで一緒に働いている
アテンド担当の人たちは、
ベテランさんが多いの も、
知っていることでしょ?
もしかしたら、それで、
" 若さ ” が、
目立ってしまう のかも
しれないしね。」
「 はい …」
「 でも、
大丈夫! 落ち着いて、
しっかりと、
的確に対応できたら、
お客様にもご理解いただける
はずだから、気にせずに、
自信をもって、
アテンドして良いのよ!」
「 はい …」
内覧会では、
施主の不動産会社の者と、施工の建設会社の者が、それぞれの役割を担当している。
Ykoは建設会社に技術者として所属していて、工事中の現場に検査ででも入るが、内覧会の際にはアテンドを担当する。
Ykoと同じアテンドで一緒に働く者は、
建築のプロもいるし、ベテラン主婦で、家事などをこなしながら住宅設備に関心を持ち、そこから勉強して詳しくなっていった者や、元々が大工さんや設備屋さんで技術的にも詳しい者などもいる。
そんな中にチョコンといて、
その者たちからみても子供くらいのYkoは、まだまだ経験も少なく、年齢的にも若い方だ。ただ……
この現場でも、SもYkoも施工側の技術職の人間として、工事中に現場に入り、作業ユニフォームとヘルメットを着用して、各工程の検査でも立会いをしていたのだが、
今回の内覧会では、アテンドとして同じく担当する、施主側のアテンドさんたちと同じようにビジネススーツの着用が指示された。
だから、今回の仕事では、アテンドを担当した技術職の男性達だけ、いつものように建設会社の作業ユニフォームを着用していたのだ。
Sはこの仕事で、Ykoのように悩んだこともあったし、過去にはもっと、男性に比べ自分にだけ、厳しいと感じることもあったが、すぐ近くに頼れる人もいなくて、一人きりで問題に直面し辛かったことも経験してきた。
そんなSだから、自分の若いころを思い出すように、仕事の先輩としても、同性としても、Ykoからのこんな弱音を聴いたら、いつまでも悩み続けることがないように、少しでも早く解決してあげたいし、
この仕事でYkoに力をつけさせるために、実践でのサポートや、技術的にも教えてあげたいことも、まだまだたくさんあるのだが、
それでも、そんなに焦らずに、Ykoには濁らず素直な気持ちを持ったまま、この仕事を長く続けてほしいと期待をしていて、
職場でのストレスにYkoが負けないように、Sはその為にも、自分の役目として、できる限りYkoの傍にいて、
護っていてあげたいと考えている。
…… Ykoには、そんな魅力がある。
❁ Ⅱ ❀✿❁❀ ✿
……魅力的なって、……
「 Nkoさん、引き続き、
今度の木曜日から、
品川に、入れますか?」
「 えっと、5日からですか?
大丈夫です、たぶん……」
「 えっ、大丈夫なの?
分かってるの?品川だよ、
品川!」
「 はい、その代わり、
次の火曜日、水曜日は
休みにして下さい 」
「 そんなこと?
良いの? 嫌じゃないの?」
「 ナンデですか? はい、
大丈夫です。火・水に仕事に
出る方がよっぽど嫌ですから 」
「 なら良いけれど…… でも、
絶対に、無いよね!
ストレスフリーの職場なんて… 」
Nkoにとってココは、どんなにか境遇が恵まれていなくて、居心地も全く良くないはずだし、もしも、Nko以外の人でもこんな目にあってしまうなら、すぐにでも逃げ出す職場なのに、
ココでNkoがなぜ働くのか、怪訝に思う人や、その境遇に同情する人もいるのだが、Nkoは派遣契約が更新されればココで働いていた。
派遣会社の担当者が全く意味のない、
口先ばかりで心配した言葉を投げかけても、そんなことも全く期待はしないし、どうにか良いようにしてくれるはずもないことも分かっている。
でも、ココが嫌で他の場所に行っても、派遣先の会社が変わらなければ、大人の事情でどうせ戻されてしまう。
「 あまり、
お客さんを怒らせないでね 」
配置換えされ異動した先方の支店長は朝礼後、ワザワザ、たかが派遣社員のNkoの前に立ち、男目線の上目遣いで諭すように伝える。
「 君が来てから、毎日、電話が、
かかってくる、忙しいのに...。
僕はどちらでもいいと思っているよ、
でもね、毎日電話がかかってくる。
怒らせるとねぇ、
あの人は偉い人だからね 」
「 はい、わかりました。
派遣会社に伝えます。たぶん、
戻ることになると思います。
ご配慮、有難うございます 」
そう、Nkoは謝罪しないが、その心遣いには感謝の言葉をのべる。
別に、仕事が無くなっても良いのだが、あちらでは、見せしめのように、関係のない同じ派遣会社から派遣されている人が、難癖をつけられて、一人ずつ、外されているとのことも、Nkoは派遣会社から伝えられていた。
ナンデそんなにNkoにあの人は執着するのだろう、いや、Nkoにではなく、自分の恣意行為? プライドだろうか?
でも…… ココは…… たとえ他人からどんな助言があっても、その聴く耳が塞がれてしまって聴こえない。それほど、あまりにも、
特異な環境の職場だった……。
派遣会社も、どこまで知っているのか、建前上、こんなカンジでNkoを気遣っているかのようには言ってはいるが、
正直なところ、Nkoにココに入ってもらわなければ、他の部署にも大勢送り込んでいる派遣会社としては、余計な? 波風は立てたくないし、これからのことも有るし、とにかく困るのだ。
「 …では!
何か困ったことが有ったら、
電話くださいね!
よろしくお願いします 」
派遣会社からの電話は、なぜかいつも勤務中にかかってくる。長くは話せない環境だから、それは、話を早く終わらせたいかのように。
……なぜ、ココにあの「本部長」が居るのだろう? 他の社員さんたちは良い人ばかりで、どの職場にもそれなりにいるアクのある人は珍しいほど居ないのに……
だから、Nkoはココに行ってしまうのかもしれない。でもそれも、あの部長が創ったものかもしれない。
あの部長…… こんなに周りを巻き込んで、傍若無人に、皆がどうしようもないくらいに…… まぁ、誰にもどうしようもないから、放置されているだけなのかもしれない。
そして、ココでの、「部長との遭遇」が、今までのNkoの、彼女自身の「社会人としての弱さ」を気づかせることになる……
Nkoはココに営業事務として派遣されてから、初日には、もうすでに、部長からの「圧」を感じていた。
勤務の間、事務所内では、まだあまり慣れてはいない事務処理のために、フロア中を忙しく廻るNkoの右側の背後に、190センチ越えの大きな部長はベッタリとついていて、
Nkoが質問したわけでもないのに、簡単な事務作業でも、幼い小学生に教えるかのような口調でゆっくりと説明し、一緒に作業をする。
Nkoが昼休みに、別の階に設けられた休憩室で休んでいても、なぜ分ったのか、たぶん、部長のPCで、防犯カメラのモニターチェックをしているようで、
皆から離れて一人で居たり、時間をずらして休憩室に一人で入った時、そのドアをノックもせずにいきなり入ってくる。
休まるはずの休憩中なのに、
いつも観られている窮屈さは、Nkoにだって息苦しく、苦痛でしかない。
それに、事務作業の合間に、Nkoがトイレに行きたくなって席を離れ、二、三歩ほど、そっと動き出すと、
「 そろそろ、
トイレにでも行こうかなぁ~ 」
と、この部長は自分のデスクから離れずに独り言を呟いたりもする。
それからも、部長の管理であろうか?
それとも束縛なのか、それは日に日にあからさまになっていき、
Nkoと他の男子社員とのビジネスライクな会話にも、
部長はすぐに割って入るようになった。
「 離れろ!」 や、
「 オイ! もう、イイだろう、
イイカゲンにしろ!」 などと、
当事者だけではなく、他の人達もそれぞれデスクに座り、複数の目も有る事務所でも、両腕を横に広げてNkoと男子社員の間に入り、そこに立ちはだかったり、
Nkoが、さほど意識をせず、男子社員と挨拶程度に軽く会話をしているのを見つけると、それすらも引き離そうと、周囲に響き渡るくらいにドタバタと音を出し怒鳴りながら割り込んでくる。
けれども、そんなアツ苦しい部長の事よりも、この時にNkoに不可解なのは、部長のそのような前時代的な茶番劇のような振る舞いに、ココの社員たちはあまり驚くことなく、取り乱すこともなく、
静かに、さりげなくかわしていることで、
これにNkoは、どちらにも合わせづらい温度差を感じるのだ。
それでもしっかりと、
ココの男子社員達には部長の横暴な行為は浸透していき、
毎度の立ち回りの繰り返しの結果、派遣されてからそんなに時が過ぎていないにもかかわらず、Nkoには、もう一人の直属の上司である、「主査」以外の男子社員達との間には距離がしっかりとできていた。
そんな文字通りの、ココのボスである部長の普段の様子は、広々としたワンフロアの事務所内で200人ほどの部下を見渡せ、
事務所の隅々までに睨みが利かせることのできる、見晴らしが良いように一段高い場所に配置された、黒光りのワイドサイズのデスクに「デン!」と構え、
そのデカイ身体にちょうど良く合わせられた、イタリアンレザーの、黒革の立派な背もたれ椅子からめったなことでは動かないし、
斜に構えたまま、広すぎるデスク上に唯一あるこじんまりしたPCをたまに覗きこむくらいで、直属の部下の社員にでさえ、直接は仕事の指示もしない。
そんな事は、主査の仕事なのだ。だから、部長にはNkoのような目新しい女にチョッカイを出す時間はたっぷりある。
けれど、やはり管理職なので、少しは、仕事中だとの意識が高いのか、世間話のような無駄な話はしてこないし、「くっ付いて」いる時も、その体勢では不自然なほど口数は少ない方だ。
だから、それを嫌がるNkoからは、ほとんど部長に話しかけることもないので、ココで二人が一緒にいる、その長~い時間の割には、部長の、なんともゾワゾワとする野太い声で囁く作業の指示だけが、僅かに周囲の一部にだけ聴こえる程度だ。
それでも、こんなに、何でも一緒に事務作業をする二人は、やはり、傍からみると、もちろん、きっと不愉快だろう。
だが、部長はそんなところは見ないのか、全く気にならないようで、この異様な光景は日常茶飯事になっていた。
それに、
異様なのはその程度ではなかった。
まるでその延長の完成形のように、部長席からはかなり離れた下座に配置されたNkoの「右横のデスク」には、それが普通サイズのデスクであるのに、
なんと、部長が並んで座るようになっていたのだ。そして、これが原因で、Nkoは、勤務中、どんどん無表情になっていく。
そして、それが何日か続いてくると、
Nkoはとうとう、勤務中身体を最小限に動かし、頭、顔を動かさず伏し目がちに自分のデスクのPCしか見なくなってしまっていた。
なにせ、見たくもない部長が、常に右横に座っているので、視界に入らないように顔をあまり動かしたくないのだ。だから、時々、対応しなければならないデスク上の固定電話が鳴ると、
最悪にも横の部長との間に電話が置かれているので、そちらを見なければならない時があるが、それでも、頑なに部長の方は見ないようにしていた。
けれども、そんなことは全く気にしない様に、Nkoがどんなにか嫌がっている態度を見せても、部長はNkoの横に何日も座り続けた。
そして、ギクシャクしたまま時間は過ぎていく。この二人の並ぶデスクの足元の間には、デスクのサイド引き出しがあるが、デカイ部長は、普通サイズの椅子に座った体勢では窮屈そうで、その脚を大きく開くので、
いつも左太腿でサイド引き出しを塞いで座っているが、Nkoは、その引き出しを開ける時も、部長に何も声をかけることなく、頑丈そうな部長の左太腿に「バン!」と音が出るほど、ワザと勢いよくぶつけてみるが、
部長は「ふぅ~ぅん」と上目遣いで軽く流しただけで何も謂わない。
ただ、それを見た周囲の人達からは、たぶん、失礼な、身の程知らずと、冷たい視線を向けられるのはNkoの方だと分かっているが、
でも、すっかり、
自暴自棄になっていたのかもしれない。
どうせ、何をどうしたって、この部長が、自分からこの席を離れて居なくなる、引くことなんてないだろうし…… Nkoは、今日も一日が長く、息苦しい……
部長が本来のデスクに居ないために、
急な用件で忙しそうに他人が探し回ろうが、
部長席の内線電話に本人が出ないことで呼び出し音が鳴り続け、
その機能が廻りにくくなっていても、部長は、自分の席には戻らなかった。このような大きな会社では、本来、営業事務の仕事をしているNkoに、「本部長」が直接絡む仕事は何もないだろうし、
この時間の使い方には、
いったい何の意味があるのだろう……
Nkoはそんなことも考えだした。
それに…… Nkoにとって、違和感があるのは、自分が部長の「標的」になったこと?いや、周りからそう観られることが、いつからなのか、どうしてなのかが全く分からないほど、
ココに入った時からスグにそうなっていることに、Nkoだけが途惑いを感じているとのことだ。そ・う・だ・と・す・る・と……
たぶん、この部長は、Nkoが知らない、この会社に在籍している何十年もの間、今のポジションにノ・ボ・リ・ツ・メ・ルまででも、何度も何度もこんなことを繰り返してきたのかもしれない。
だからその所作?は、抜かりなく行われるのだろう。
実際に、こんな状態になっていても、部長からは直接、Nkoには何も告げられていない。相変わらず、口数が少ないまま、Nkoの横に座っているだけだった。
でも、それが、もう、何日続いていたのか分からないほどの、
「ある日」に突然、そう、少なくともNkoには、
その前兆になる部長の変化は分からなかったが、
部長は飽きてきたのか、
それとも、やはり、業務上の支障が出始めたのか、
ふと気づくと、「この日」を境にNkoのデスクの右横から、部長は、
消えた。
けれど…… この日……
「 Nkoさん、今日は残って下さい 」
この日は、もう、週初めのバタバタも乗り切っていたのに、そして、Nkoには、やり残しの仕事はさほどないはずなのに、主査は穏やかに、ごく日常の当たり前の業務連絡のようにNkoに指示をする。
「 Nkoさんが受付けた、
今日の案件について、
君島に説明し、
作業分担をして下さい」
「 えっ、今日ですか?
でも、私、
明日も出勤ですが……」
「 あれ? そうなの?
明日は休みじゃないの?」
「 はい、明日は出ます 」
そこへ、まだ、入社3年目の、腰に太めのチェーン付きのキーホルダーをブラブラさせた、ちょっとヤンチャな、男子社員の君島が合流する。
「 明日も立て込んでいるから、
今日で良いじゃない?」
「 でも、
私は立て込んでいませんから…
私、今までの仕事だと、
火、水の休みが多くて…
だから、水曜日ナンテ、
あまり、忙しくしたくはないし…」
Nkoも、まだ若手の君島には、ココでも気の許せる、まるで同期入社の仲間のようにイジッタリもしてみる。
「 それでも、
俺は立て込んでいるから
今日が良いな~ 」
君島も、あの部長の事など気にならないように……、
それとも、何か知っていて?
他の人とは違って、まるで無防備に、Nkoに接してくる。
「 え~、でも、
私は、明日も来るのに? 」
Nkoも、部長が見あたらないので……
こんなやり取りを楽しんでいるようだった。
「 ハイハイ、分かった。
Nkoさん、やはり、
こ・れ・か・ら・に・して下さい 」
上司の主査は、それでも、早く事を済ませたいのか、それとも、「やらなければいけない」ことを変えたくはないのか、宥めるようにNkoの肩を押し、手ぶらな君島には指示書を渡し、会議室に行くように伝えた。
「 ふ ぅ ~ 」
Nkoは自分の生活リズムをあまり変えたくはない方で、今日が水曜日だったので、いつものように一週間の中でも料金が安い夕方に、ホットヨガに行こうかと考えていた。
自分が立てた計画通りに生活する、その為には仕事をするときも時間を決めて行動する。だからシフト勤務の営業事務の仕事は残業が少ないので有り難かったのに、思い通りにはいかなかったようだ。
「 ナンデ、今日なのよ!」
と、不機嫌顔で、せっかく定時上がりをするために昼間から半日かけてまとめた報告書を乱暴につかみ、鼻息も荒かったが、
あきらめたのか大きくため息をつくと、その書類を大事そうに胸に抱え直し、トボトボと君島の後に続き、二人は上の階の会議室に入っていった。
「 じゃあ、
今日、お問い合わせの
あった件について、
君島さんにも報告しますね、
先方のご担当者は、
結構細かいところにまで、
指示をされる方で、
先ずは、プレゼンされていた
設計コンセプトについて
ですが…」
まだ何も進まない、話し始めて20分ほど経った頃だろうか、急に君島のスマホが鳴った。
「 オマエ!
そこで何をしているんだ、
スグにそこから出ろ!
何もしていないだろうな!
オマエは絶対に何もするなよ!
手を出したら、どうなるか
分かってるんだろうな!」
それはNkoには聞き慣れない、たぶん初めてだったのかもしれない、ハンズフリーにしたスマホからの部長の怒鳴り声は、
ボリュームがありすぎて音割れがするほど凄まじかった。でも…… 意外にも、君島は、それでも、表情も変えずに淡々と話す。
「 Nkoさんの受けた件に
ついての話し合いでして、
これが終わらないと、私は、
明日も、
立て込んでおりますので、
今日中に、
段取りをしようかと…」
「 イ・チ・イ・チ・
ウ・ル・セ・イ・ナァ、
オマエ! ふざけるなよ!
だったら、昼間やれ!
すぐにそこから出ろ!
6時半を過ぎたら、
ただじゃぁ済ませないぞ!
すぐに戻ってこい!」
これは仕事上の指示なのか、それとも、私情なのか。一方的に、しっかりと、Nkoにも聴かせるかのような大声で強く云いきってその電話は切られた。
「 あぁ~、では、
その様なことなので、
戻りましょう……」
君島は、さほど驚かない。けれども、さっきまでの話し方とは違い、すっかり、事務的な話し方に変わっていた。
以前にも、ココではそんなことがあったのか、そんな人が以前にも部長にはいたのか……
ココに、まだそんなに長く勤めていたわけでもないのに、毎度のことで、もう、こんなことにも、慣れてきてしまったのか、Nkoも、そんなに動揺はしなかった。
「 ハイ……」
ただ、Nkoは、いったい
「この残業は何だったのだろう?」
と、不可思議だった。
実際なにも、仕事は進まなかった。
それに、部長は自分ではなく、
君島にかけてきた。
それではNkoは、直接、部長に何も言えない。なんだか、また、部長のパフォーマンスで、「一方的に聴かせる」ための、事務所からの隔離のような気もした。
こんなに大声で怒鳴っているのだから、きっと、部長のいるデスク周辺でも響き渡っているだろうし、まだ仕事を続けていてそこに居る、部長の部下たちにも聴こえているだろうし……
……これは、また、部長の、
「合理的なやり方」なのか……
Nkoは面倒くさい気持ちになりながらも少し冷静に考える。主査が指示をした、この意味のない残業は、やはり、部長が指示したのかもしれない……。
……このまま、
二人で揃ってデスクに戻ったら、
また、
部長のパフォーマンスが続き、
派手に怒られるかもしれない……
「 私...
一緒に戻った方が良いですか?」
「 あぁ…… ここで別れましょう、
その方が良いですよね」
まだ若い君島にも、もう分かっているようだった。
「 はい、
私はこれで失礼します 」
Nkoは、当然、その場の対応に困るので、周りとも目を合わせないように帰り支度を急ぎ、なるべく早く出られるように最短距離を考えて小走りでエントランスに向かった。
それなのに……
Nkoは、もうすぐ、外に逃げ出せるエントランスの自動ドアの一歩手前で「ピタッ」と立ち止まった。
その自動ドアを出た先の車寄せには、部長の車がエンジンをかけたまま、見事に「6時半」に合わせて横づけされていたのだ。
これでは、そのまま出れば、その先で待ち構える部長の車に乗ることになってしまう。
……どうしよう、
さっき云っていた
6時半って、
この事だったんだぁ……
このまま部長の意のままに動かされるのも癪に障り、Nkoは、なんとかしなければと頭をフル回転させ、身悶えしつつ、まるでピエロのように大げさなジェスチャーで、
遠くからでもわかるように、チェスターコートのポケットに手のひらをバタつかせながら突っ込んだ。
「 あれ? pass 忘れた?
イヤだ、
せっかく下りてきたのに、
また、戻らなくちゃ……」
Nkoは車の前に立つ部長にしっかりと聴こえるように、ひとり言を、叫ぶかのような大声で言いきり、またまた大げさに回れ右をして、そこから素早く離れ、戻っていった……
そう、けっして油断をせずに、
背中でも人の気配に注意を払い、
部長がついてきていないかを確認すると、
暫く、エレベータ横の背の高い立派な観葉植物の巨大な鉢の後ろに隠れ、ちょうど良いタイミングでエレベータの中から出てきた、何も知らない、電車に乗るために駅に向かう人たちの群れに紛れた。
けっして、その群れの中からはみ出さない。Nkoは、スマホをいじりながら、まるで、すぐ先にあることでさえ、何事も気づかない振りをして、堂々と、見事にそこから脱出した。
まだ明るく、誰も夜だと認識しない、夕方の6時半過ぎ、会社から数分と近い品川駅にたどり着くと、「はぁ~っ」と、Nkoは深く息を吐いた。
それでも、やはり「ドキドキ」はまだおさまらず、急ぎ足のままホームへ進み、もう、あの部長からはしっかりと離れていても、
何も考えられずに、どこにも寄り道はせず、真っすぐに帰宅した。
『 ねぇ、大変!
部長が朝から不機嫌で、
皆に、アタリ散らしてるヨ!』
女子更衣室には、
まだ着替え中の人も何人かが居るのに、ドアを思いっきり開けて飛び込んできたかと思ったら、
とぼけた顔で、どうして部長がそんなに不機嫌なのかが、全く分からないけれど、とても大変なことなの! と云わんばかりに、
たまたまそこに居た、Nkoに知らせてあげました! とのことのように話す彼女は、違う派遣会社だが、立場は同じ営業事務で、同時期に入った一緒にあの部長の下で働くN’だ。
せっかく部長から上手く逃げ切った! と、思っていたのに、次の日には、出社早々、まだ、何も始められない事務服に着替え途中なのに、Nkoはもう、過呼吸になりそうなほど息苦しく、
後ろから絞めつけられたように頭が痛くなってしまう、
こんな、訊きたくもない話を聞かされた。
……私が原因なのかなぁ? …… でも、仕事は終わっていたんだから、部長の車に乗るか乗らないかは、私が決めても良いんだよねぇ…… ナンデ怒っているんだろう……
これって……
私が謝らなくちゃいけないのかなぁ……
朝からドッ! と落ち込むNkoに、部長の様子を伝えに来たN’は、どこまで分かってこの役目をしているのか、そんな世話焼きなことが多く、
派遣社員の弱さから、Nkoがココの誰にも相談したことがない、部長との距離を少しだけでもとりたがっていることも、もちろんN’にだって言ったつもりもないのに何故か知っている。
まあ、Nkoはまだ幼いところも有って、周りからみると単純な分かりやすい娘なのかもしれないが、反対に、N’は少し大人で、したたかなのか、変な話、あの部長の部下として、器用にちゃんと、どんな役目もこなしてしまう。
けれども、そんな娘ならば、Nkoのような部長のお気に入りは、傍にいない方が、同性としても自分の立場が安泰なはずなのに、何故か、表面上だけかもしれないが、Nkoに優しく接してくる。
それとも、「Nkoに優しくしてやれ!」と、そこまで部長に命令されているのかは分からないが、このカンジ、N’は少し、Nkoには困る。
だから、そんな、せっかくの有り難い情報? にも、Nkoはすぐには動かなかった。
これだって、部長がわざと自分の気持ちを彼女に「伝えさせている」のかもしれないと感じたからだ。まだ、ちゃんと状況が呑み込めていないのに動けない。
そう、下手に動くと、また、部長がそれに乗っかってくるのが分かる。それではまた、Nkoは、自分の仕事以外にも対応しなければいけない面倒くさいことが増えてしまうのだ。
だが、それでも、やはり、これは、すんなりとは、終わらないようだ……
Nkoはその日、部長に挨拶もせずに、目を合わせることもなく自分のデスクに座り、マイペースに自分の仕事を始めてしまった。
けれど、意外にも、部長の方からは、何も聴こえてこない。そのまま何事も、Nkoの周りで起こらないことに、少しホッ! としていた昼を過ぎた頃、再び、N'はコピー室で作業をしているNkoに近づいてきた。
「 ねぇ、大変! 部長ったら、
ホントはもう、
出掛けなければイケないのに、
まだ、
落とし前?つかないことが
有って、
出られないんだってぇ~、
このままじゃあ~、
ゼッタイに!
気が済まないってぇ~ 」
……エッ! ナニ? ソレッ。でも、午前中、何となく部長の方を警戒していたけれど、別に、険しい顔していなかったし、デスクで静かにしているようだったのに、あれって、怒っているの? もう~、この、「大変!」って聴くの、ホント、イヤダァ……
「 そうなの?
ナンデ、だろう……」
Nkoは、わざわざ自分の仕事の手を止めて、その事を伝えにここまでやって来たN'に向かって、何を言い返して良いか分からない。
部長は…… 自分がされたままでは、終わらせないのか……
…… ナ・ン・デ、……
この部長の面倒くさいところは、仕事以外の私情な事でさえも、自らは云いに来ないところだ。これにNkoは困惑し、
直接話そうとしない、一方的すぎる部長にいつももどかしさを感じる。なぜそんなに腹を立てているのか、いったい、いつまで怒っているのか、これでは、単純で天然系のNkoには分からないのに、
変な「圧」だけ感じさせてくるし、自分の気分ですら、わざわざ人を入れて伝えてくるのにも、ウ・ン・ザ・リだ!
それでも、そんなに「デリケートな?」部長に、いったい何が起きているのかを、せっかく、少しでも整理して考えている最中のNkoに、
そんな時間すらも与えないように、こ・れ・で・も・かと、続けて、今度は、こんな日でも、いつものように事務的な対応がスマートな主査が、これもわざわざコピー室までやってきて、
「 コピーが終わったら通路に出て、
そのままそこで待機するように 」
と、おそらく、これも部長の……
指示を伝えた。
「 ハイ……」
……部長は、怒ってたんだぁ……
また部長が、何か仕掛けてくる……
部長は、自らは、すぐには動かない。
まず、周りの人間に指示を出して動かす。そう、さっきのN'の話しも、部長がNkoにだけ伝えたい、私情の話しですらも、わざわざ人を使って、「必ずNkoの耳に入れるように」と指示をする。
Nkoには、
今朝、出勤するとすぐに、「部長が不機嫌だ」とのことが伝えられ、それはしっかりとインプットされた。
だから、それにも増して、これから起こることに、よりいっそう不安を感じながらも、今から指示通りに「通路に立たされ」、その動きを止められる。
Nkoは大袈裟ではなく、絶望感から、この後にきっと、部長が来ることが分かっていても、もう、そこから「動けない」のだ。
しかも、このようなことだって、今までも何度もあった。だから、ここで逃げたって、それで終わりになんてならないことも、Nkoには分かっているのだ。
これまでにも部長は、このようにお膳立てのようなことをしていたのだが、Nkoがその、部長の考えた通りの動き方をしなければ、こんなカンジのくだらないことですら、あの部長は……
たとえ役職がついていて、常に業務に忙しい主査であっても、その人のプライドをも無視したように、わざとNkoに見せるように、そして、分からせるように、厳しく叱責するのだ。
Nkoは、「自分が勝手なことをすれば、他人が責められ迷惑をかける」とのこと、そんな理不尽なことも、何度も経験させられインプットされていた。
だから、その都度、精神的にも追い込まれ、もう、マインドコントロールされたように、Nkoにとっても、仕事に関係ない、こんなことでも、その「指示された通り」に動いてしまうのだ。
そうして……
部長に命令された夫々が、ちゃんと上手く指示通りにやったところで、
部長はゆっくりと、
外に出されたNkoに近寄り、
呆然と立ち尽くすNkoの真正面、真ん前に壁のように立ち塞がり、スマホを耳にあてたまま、不気味に黒光りした「激怒した野獣の目」で、威圧感を出しまくり、高い上から睨みつける。
そのまま、耳にスマホをあてているのは、Nkoの、少しの言い訳も許さないつもりなのか、ただ、瞬きもせず「ジ~ッ」と、黙ったままで睨み続ける。
Nkoは唇を噛みしめたまま声が出せない。でも、訊きたい……まだ、まだ、まだ…… 部長はスマホを耳にあてたまま黙って睨み続ける…… 今、Nkoが声を出せば、その通話中の邪魔になる。
その相手が誰なのかも判らないのに、声を出せない。けれど、本当に何処かに繋がっているんだろうか、それとも、また、一方的に事を済ませたいのか……
10分か、20分か、どのくらい時間が過ぎたのかは分からない。息苦しさを感じ出したNkoは、身体の向きは変えないまま、少しだけ、部長から目を逸らし、伏し目がちに左へ視線を向けると、
事務所の出入り口、ガラス張りの大きな扉の向こう側では、「誰も通路に出さない」ようにとの完璧な守備のため、見張り役に立たされた社員の背中が見える。
その大きなクリアガラスの両開きの扉を挟んで、仕事中の人たちからは、部長とNkoの様子は丸見えだ。
まるで、「見せしめ」のように、Nkoは睨みつける部長と向かい合ったまま皆の前にさらされ、時間だけがただ過ぎていく……
やっと、「長い刑」に服していたNkoのこの時間に終わりがきたのは、通路の端にある、エレベータの扉がキチンと機械的な音を立てて開き、中から、何も知らない普段通りの業務をこなしている中年の男性社員が出てきた時だった。
その人から見たら、誰もいない通路で、部長とNkoの二人が、勤務時間中にもかかわらず、ただ見つめ合っているように見えただろうが、おそらくはここに長く勤めているのだろう、
この部長の事をNkoよりも知っているかのようで、そんな二人には近寄らず、無反応のまま自分の所属する事務室に入っていった。
だが、そんな事でも、デリケートな部長はやはり気にするのか、ようやく部長の姿は通路から消え、それと同時に、Nkoは体中の力が抜けて、やっと普通に呼吸ができた。
それほど、
この部長は「厄介」で、
Nkoには「面倒くさい」
人間なのだ……
それに……、
こ・れ・で・も、
これだけやられても、
まだ済まされない……
部長のご機嫌を悪くしたNkoは、自分のデスクに戻ると、他人の何倍もの仕事が主査から云いつけられた。
そして、「止めを刺した」後のように、その時にはもう、ようやく部長は出掛けたようだった。
……部長は、どれだけ強靭な、頑強な人間なのだろう……
見せしめのように立たされ、仕事量も増やされ、Nkoがどんなことでも部長に逆らえば、容赦なく、ペナルティは課せられていくのだ。
Nkoはあの時、それでも、分かっていたことはある。
これにちゃんと対応しなければならない……
ガラス扉の向こう側に居る、「あの人に見せる」ために……
だから、Nkoは俯き、悲しそうな表情をしてみせた。
これは、部長にはけっして効き目がない「ポーズ」でも、
あの人に「傍観」させないといけないのだ。
そうでないと、
本当に部長の気が済まない……
部長にとっては、こんな二人の関係がフェイクだとNkoだって知っている。これは、他の人に見せるための「部長の演出」だと……
Nkoは、その実年齢には見えないほど幼さの残るアイドル顔で、スタイルも、若さをキープしたままだ。
日本人なのだが、どこかハーフ顔の、目鼻立ちのハッキリとした、どのパーツも大きめな顔だし、長身のスレンダーだから、事務服のスカートから伸びる脚はながく、
キリンのように「優雅」に歩く様は、その動きを止めて足首から視線を添わせてみたくなる。ましてや、ハイヒールを履くと、そこいらの男子よりも背が高くなる。
だが、ココの部長は、そんなNkoよりもさらに大型で、ボスゴリラのようにガッシリとしていた。
朝礼の時には、前列から、かなり離れて立つNkoからは、挨拶をする部長の胸の辺りに、きちんと整列した他の人の後頭部が並んで見え、
部長のご尊顔の前は何も遮られていないので、どんなに離れていても、やはり大きなNkoと「目が合って」しまうほどだ。
そして、もしかしたら、学生時代に格闘技でもやっていたのかと思うくらいの体格と、悪役の役者にスカウトされそうな、よその社会の人のような強面の人物なので、黙っていても、
そこに居るだけで存在感は途轍もなく大きい。なので、そんな二人が並んで立つとそれはもう、かなりのオーラが周りに伝わる。
これは、この仕事ではきっとベストカップルなのだ。どこにいても目立つこの二人は、取引先でも、揃って登場すると、初対面の相手は気を呑まれるくらいの迫力になっている。
そう、ビジネスに、もってこいのパートナーでもある。
このことを賢い部長は分かっていて、きっと、周囲にはそのように見える行動をとっているのかもしれない。
それが証拠に、もうすっかり公認の仲なのに、この二人は一度も大人の関係では交わったことがないのだ。
だから、昨日のように、部長の車にNkoが乗らなくても、おそらくは、この部長は気分もさほど害してはいない。
それでも、大袈裟に行われたこの見せしめのような振る舞いは、違う、「部長の狙い」もあるからなのだ。
この部長の下には、社員のほかに協力会社の者や派遣技術者が30名ほどいて、その他に、Nkoを含めた女子の派遣社員が数名、シフト勤務で入っているのだが、
その中に、まったく癖がないストレートの、腰まで伸びた艶やかな黒髪が美しく、まるで、壊れやすく繊細な「陶器人形」のような小柄な色白和美人がいる。
大人しく、控えめながら、柔らかなオーラを出す彼女は、s'。
歳はNkoと同じくらいだ。でも、それ以外は派手なNkoと共通点は一つもない。
とても、ものしずかな女性…… s'は、誰からも好かれるタイプで、Nkoも、そんな彼女に引き寄せられる。
部長の狙いは、きっとこの s ' で、
Nkoに対する仕打ちが、「それを隠すための芝居」だったとすれば、Nkoが感じる、部長がいつも一方的て、Nkoからの返事を必要としていないことも、
部長がNkoに無表情で口数が少なく、気持ちや思いが全然伝わってこないのも、この s ' の存在を前に持ってくると理解ができる。
今、 s ' がPCで書類を作成している。キーボードの上では、その小さな手、か細く透明感のある、きめ細かな柔らかい白い指が、優しく美しく、ピアノを弾くように軽やかに動く。
その指をジ~ッと、見つめると、同性のNkoでもゾクゾクしてくる。
Nkoに向かい合うデスクには、その s ' がいつも座っている。
部長がNkoの右横に座っていた時、あんなに「大人しかった」のは、s ' を怖がらせないように、そして、その近くで、少しでも永い時間、眺めていたかったのかもしれない。
この頃はもう、ココの繁忙期はようやく抜け出せていた…… そんなことも考えにあったのか、部長の思惑は、どこまで計画的なのか……
実はそれなりに、「頃合い」も視られていた中で、Nkoが部長の車に乗らなかった日、あの日は「水曜日」だった……
そんなその週は、いつもとは違う、「ムラ」が有るシフトで、
Nkoの勤務は
月曜日、火曜日、水曜日、木曜日で、
s ' の勤務は
月曜日、水曜日、木曜日、金曜日だった。
水曜日に部長から逃げたNkoは、木曜日には、部長の怒りを受け止めなければならない日になった。けれども、Nkoはその翌日から数日は連休の休みで、その休日には、部長からの圧からは解放され、心身ともにリセットできる日になる。
そして、火曜日を休んだ s ' は、水曜日には彼女の仕事が溜まっていて、残業になる可能性は高く、夕方のNkoのドタバタを観ているだろうし、木曜日にはその続きの修羅場を目の当たりにしたのだから、 s ' の金曜日は……、
きっと、彼女は、指示された通りに、静かに、部長が待つ車に乗ってしまう。
だからその為に、「水曜日」に、わざわざNkoを残業させて、君島にあのような電話をし、「6時半」と、時間までインプットさせて、部長は車で待っている。その、激しい電話の内容から用心深くなっているNkoは、当然、車に乗らない。
部長は木曜日の大義名分を作り上げる。
……こうして、
部長の考えた通りに、
全てが上手くいく……
そう、ココでは、 s ' がいてくれるから、Nkoは必要以上のダメージを受けないし、 s ' は、表面上はお気に入りのような立場のNkoが傍にいて、ダミーになってくれるから、職場で、部長との関係を他人に気づかれることはなく、
彼女のイメージが壊れることがないまま仕事を続けていられる……
Nkoは、こんなゴタゴタの、面倒くさい、公私混同な、もう、何て言っても言い表せないような、部長の極悪非道な振る舞いに、Nkoと共に「巻き込まれている」 s ' に気遣いの言葉をかけてみるが、
s ' は目を伏せ、薄い唇を微かに動かし、か細い声で、それでも、ちゃんと分かっているかのように「私は、あの部長は大丈夫よ」とNkoに話す。
だからNkoは、どうせ抵抗しても勝ち目の絶対にない部長の、やりたい放題にさせておくのだ。
それに、Nkoは s ' を気遣い「三角関係」なのに嫉妬はしない。
到底、Nkoはこの可憐な s ' にはなれないと自負しているし、ましてや、現在もこれからも、部長に対する恋愛感情なんてものはNkoには全く持てないのだ。
Nkoが、 s ' を心配するほどの、そして、さらに、自分はそれ以上に、こんなに部長から虐げられても、なぜか、ココを自らは辞めないのは、Nkoが精神的に強いのではなく、それよりも、もっと苦手なものが他にあるからだ。
Nkoには、
他人に言えない欠点がある。
「人を本気で愛せない」のだ。
だから、今までに本気でNkoを愛してくれる人が現れても、その人の気持ちが分からずに、Nkoに近づいてきたその人に対し嫌悪感を抱いて、かえって、必要以上に相手を拒絶し、傷つけてしまうこともあったのだ。
そして、それが職場内で起これば、そこでの人間関係は悪くなり、Nkoはそこに居づらくなって、仕事を辞めてしまうことが何度もあった。
Nkoが自身の働き方を自由に動き回れる派遣にしているのも、そうした、人間関係が煩わしいこともあっての事で、その問題に巻き込まれた時にも、カ・ン・タ・ンに代役を立て、すぐにでも職場を替えられるのが、
周囲への迷惑を最小限に抑えられて気楽だったからで、今でも、派遣社員でいるのは、そうした、対人関係が苦手なままだからだ。
Nkoがココの部長に反抗するのも、その苦手意識からくるものだが、でも、このボスゴリラのような部長に限っては、そんなNkoの反抗的な態度の程度では、ゼンゼン効き目がないようだし、
そもそも、Nkoに対しては、部長からの思いや気持ちは向かっていないのでナンともないらしい。
だから、Nkoは、ココでは問題を起こしていないことになる。
それに、これもたまたま、部長が、周りの男子を追い払ったおかげで、Nkoの周りには女子しかいない環境ができてしまっていたし、
仮に、それでも、Nkoに好意を持つ人がいたとしても、ココでその人が働き続けるのであれば、こんな部長との間に割り込んで、Nkoに気持ちを伝えることもないので、
Nkoが傷つける人が出てこない。だから、ココでは、今までのNkoの欠点が出ないで済んでいるのだ。
Nkoは部長に虐げられながら、「自分が受ける辛さ」と、過去のトラウマから、「自分の欠点から、人を傷つけてしまうことでの、自己批判に苛まれる」ことの、
どちらの辛さが大きいかで自分の置き場所を考えているようだ。
それならば、
今度こそは、カンタンに
逃げ出さないで……
これからは、そのキリンのような長い頸を良く動かして遠くまでを見渡し、自分の身を守りながら
「ゴリラを観察する」側にまわって一定の距離を保ち、そんな事よりも自分の欠点の人間関係を克服するために、周囲に目を向けて、
主査や、同僚の人とも、上手に社会人として付き合って行けるように成るのならば、これは、Nkoが、変われるチャンスなのかもしれない。
❁ Ⅲ ❀✿❁❀ ✿
……健気に努力をすれば、
チャンスはやってくるの? ……
自分が、社会に出て、そこで仕事をしていくために、いつの間にか、ガチガチの硬すぎる「鎧」を身に着けた内向的な女性がいた。
「ねぇ! チョット~
そこで、着替えるの~?
外から見えるから止めなよ!
セクシーすぎるじゃん!」
女子更衣室の壁寄りのロッカー前から、そことは反対側の、外との境界壁入隅に設けられている換気目的のルーバー窓に向かって、頼子さんは声を掛けた。
「ゼェ~ンゼン、平気!
誰も観ないわよォ~、
オ・バ・サンの、
スポーツブラ姿ナンテ!」
そんな自虐なセンスで、
外の事よりも、この更衣室の中で、
どれだけ他人の邪魔にならないかを
優先させているMkoが、
続けて言い訳をする。
「 だって、乳!垂れてるし、
セクシーブラなんて
持っていないしィ~ 」
「 …エッ、垂れてるの?」
ニヤケながらしっかりとリピートすると、何だか安心したように、それ以上はもうツッコまない。頼子さんは、やっと自分のロッカーの方へ向きなおし、思い出したように忙しなく着替えを続ける。
他人と一緒に着替えをするなんて、
本当は、「潔癖」なMkoには、耐えがたいことなのだが、制服を着用する仕事を選んだのだから仕方のないことで、それならば、他人からはみえない鎧を身に着けて、コ・ン・ナ・コ・ト、
「何も気にしていません」と、
必要以上に、
下品な態度をとってしまう。
Mkoは、息子が2人いるお母さんだ。
この7年、仕事をしながら、休みの日には、家族に甘えることもなく、イヤ、潔癖なので他人に任せられないから、家事も溜まっているのに、
なぜか1日に何回も掃除機をかけながら、家の中ではジタバタと妻や、母親としても、何とか、今までやってきた。
Mkoの家事は、時短を取り入れ、
洗たくは、洗濯機の乾燥までのフル回転だし、買い物はネットを利用し、料理は、ワンプレートディッシュで手抜きながら見栄え良く作っている。
職場で決められたMkoの休日に、限られた時間の中ではあるが、このように、器用な人から見れば完璧にはできていない家事なのに、それでも、家族にあまり頼らないのは、
やはり、潔癖な性格からかもしれない。それに、Mko自身が思う、穏やかな性格の夫や、朴訥とした息子達に、あまり、家事の忙しさを、押し付けたくもないと考えているならば、
それはそれで、各々が自ら参戦してこない家族に、Mkoの家事に対しての不満があったとしても、少しは妥協してもらわないと仕方ないのかもしれない……
けれど……
Mkoはそんなに家事をサバサバと割り切って熟しているのだが、それでも、家族の事はMkoなりに一生懸命に思いを寄せていて、外に働きだしてから、食べ盛りな息子たちのおやつにも気を配り、
リビングには、一寸した、
お店の「お菓子コーナー」のような、
つい立ち寄ってしまう一角をつくり、
赤・黄・緑のカラフル三段ボックス
の引き出しに、
腹持ちの良いお煎餅や、クッキー。甘いもの、しょっぱいもの。夫やMkoのお酒のおつまみまでもが、それぞれにバリエーションも加味され、捕りだしやすいようにストックされている。
このお菓子コーナーがリビングにあるので、ほとんど毎日、思春期になっても、息子たちはリビングに居る時間が長く、そのおかげで、Mkoは息子たちの日ごろの様子も視ることができ、
コミュニケーションやスキンシップもとりやすくなるので、このお菓子コーナーを、常に充実させたい家の中の大切な「設備」にとMkoは考えている。
「 お母さん、明日も仕事、
頑張ってくるね!」
誰も居なくなったリビングで夜遅く、Mkoはコッソリと、芋けんぴを赤色のボックスに、ポップコーンを黄色のボックスに、ビーフジャーキーを緑色のボックスに入れた。
妻であり、母であり、女性であり、
仕事人のMkoが、一緒に働く女性職員たちの着替えに気を配り、かなり遠慮しながら制服に着替えていた更衣室があったところは、規模がそこそこな区役所に隣接された区の公会堂だ。
この2階建の館内には、大小の会議室と控室、水屋の有る茶室と、和室は2階にあって、1階は、舞台のある大ホールと控室、吹奏楽の練習や、ダンスなどでも利用できる壁の全面が鏡張りにされた防音壁の多目的ホールなどが配置されていて、区外からの利用者も集まってくるパブリック施設だ。
この公会堂でのMkoの仕事は「窓口」の仕事。仕事としてみると「受付」との違いは、来客の対応だけではなく、事務仕事もあることだ。
この職場を任されているイメージは、Mkoの認識では、ずいぶんと勝手な見方なのだが、力仕事もあるし、夜の10時までと遅くなる勤務もあることから、
「なんでも屋さん」な感じで、
チョッとタクマシイ女性の仕事?
でも、その意識が、潔癖気味のMkoにとっては、少し気の抜ける、緊張しすぎることのない職場で、今までストレスフリーで仕事を続けてこられた。
……ストレスフリーな
職場だったのに……
Mkoは、結婚していて、
子供も息子たちなのに、
「男嫌い」なところがある。
この、「男」とは、男性すべてではなく、Mkoよりも、「力が強そう」で、「上の立場の人」のことで、穏やかなMkoの夫はその中には入らないし、自分の子供も入らない。
それは、Mkoが学生の時には「先生」で、部活の時には「部長」や「顧問」で、病気の時には「医師」であって、職場では、「上司」がそれにあたる。
つまり、Mkoは子供のころから、自分が「従わなければならない立場の人」が男だと苦手なのだ。
これは、病的なものかどうか、Mkoは誰にも相談したことがないので分からないが、育った家庭が、女系家族で、今でも、親戚は、女性親族の方が多く、その中で、
Mkoが、従うべき人や、
身近に助言を得られる人が女性ばかりとのことも、多少は影響もあるのかもしれない……。
けれども、Mkoのこの性分は、
自分から周囲の人には言わない
ので、家族や職場の人は、
おそらくは気づいていないのだ。
それなので、今働いているこの職場でも、仕事中に関わる周囲の人が「女性ばかり」なことが、Mkoの仕事を続けていられる大きな要因の一つでもある。
だから、Mkoは仕事中にでも、「男」と対峙する場面になると、あからさまに、無愛想で不機嫌になる。それでは、わざわざ、敵をつくっているようだし、相手が外部の人ならば大変な問題だ。
だから、そこは、鎧を身に着け、
自虐的に「オバサン度」をアップして対応するのだが、それが…… 意外にも失礼にならずに、客人からは、サバサバしている人に見られ、付き合いやすく好評なこともあるから不思議だ。
……それでも、ある日、
そんな健気な、努力家の
Mkoに思わぬ敵が、現れた……
「おはようございます。
吉川と申します。
ここで、
新しく館長の任に就きます。
今回、女性ばかりの職場に
入ってしまって、なおさら
緊張していますが、
皆さんのご主人と一緒の、
だだのオッサンです。
ここでの業務に慣れるまで、
そんな扱いになりますので、
よろしくお願いします!」
それでは、いったい、
新館長が何歳なのかが判らないが、たぶんMkoと同じくらいなのか、話しの最中には、ほうれい線がクッキリと刻まれたその横顔が気になったので、ベテランの管理職なのかもしれない。
挨拶の中での「皆さんのご主人と一緒の…」は、ここの職員たちに合わせられていて、さりげなく親近感をだしている。
吉川館長はきっとこんな挨拶にも慣れているのだろう、話しを聞く職員の一人一人の様子を窺いながら、もう、「次の事を考えているような」余裕のあるその表情からは賢さもみてとれた。
……えぇ~、うそおぉ、最悪! 知らなかったぁ~ いつの間に、そんなことになってたのぉ~。頼子さんたらぁ~、教えてくれれば良いのにぃ~、くだらない話ばっかりしててぇ~、もおぉ~、どうしよう……
そう、Mkoは、こんな、
大ごとを知らなかったのだ。
……せっかく、いままでは、
穏やかな、けれど仕事のできる
「女性館長」だったのに。
もちろん、大ホールの舞台装置の力仕事だって、女だけで頑張ってきたし…、誰も利用者のいない時には、照明を消された、真っ暗な館内で、夜の10時になるまで、ポツンと一人の窓口でだって、
怖がらずに、文字通りの「遅い時間までの遅番」をこなしてきたのに…… な・ん・で、どうして良いか分からない。
この吉川館長、「オッサン」なんて言っていても、すぐに上から目線で接してくるんだろうなあァ……
まだ、着任の挨拶の途中なのに、Mkoの頭の中はパニックだ。今、Mkoは、どんな表情になっているのだろう? 「苦虫を口に入れてしまった」表情か、「大嫌いなカプセルの風邪薬をのどに詰まらせないように警戒して飲み込もうと用心している」表情なのか、
どんな顔をしているのか
自分では分からない。
... うぅ~、こんなことって ...
せっかくの周囲の歓迎ムードを無言のまま否定し続けるMkoは、ショックを受けたまま、朝礼の間中、固まっていた。
確かにここには、週に何回か作業に入る男性職員の田辺さんや、出入り口にはちゃんとガードマンさんたちがいる。この人たちは、Mkoにとって仕事仲間で、上司ではなかったので、何とか今まで上手く距離を保ちながらお付き合いができてきたつもりだった。
なのに、館長となれば、それは上司であって、Mkoは、当然のことに従わなければならない立場だ。それに、今は年度初めで忙しいために職員たちは大勢揃っているが、普段のこの窓口は、必要最小限の職員が勤務する体制で、
まぁ、事務所も兼ねているので、窓口のカウンターに一人が座り、もう一人は事務机にいてと、館内利用者の予約人数にも合わせ、何も予約がない日には、二人体制で、シフトが組まれることも多い。
ならば、Mkoと吉川館長の二人での当番の時だってあるのだ……
さっきから、こんなに短い時間でもMkoは忙しくいろいろと考えていた。その二人のシフトの時には、どう対応しようかなどと、どんどん、妄想とシミュレーションを繰り返す。
まだ、吉川館長がどのような人なのかも判らないのに、男とのことで警戒モードも全開になってきていた。
「……それでは、
よろしくお願いしダス 」
……えッ? 今、館長ったら、
『 ダス!』って、言ったァ? ……
Mkoは、ふと、
耳から入ってきたこの違和感で緊張が溶けた。そして、やっと力も抜けたからなのか、つい、フッ! とその場で失笑し、周囲に聞こえる音を漏らしてしまった。
それは悪いことに、
静かな場では意外に目立ち、これには思わず我に還り、手で口を塞いだMkoだが、でも、それでも、そんなことは、別に大したことではなく、自然な反応だとも思っていたのだが……
一緒に朝礼に出ていた人は、
皆、誰も動かず、大人な対応で、何事もなかったかのように無反応だったので、不覚にも、態度が失礼なのは、Mkoだけだった。
「 おい、君、
高校生じゃないんだからさぁ~ 」
朝礼後の解散でそれぞれが動き出すと、吉川館長は、自分で言い間違えた当人であるのに、すっかり、立場が逆転したかのように、Mkoを窘めるように、軽く握った拳をわざわざ見せながら、
コツン! と、窓口に座った、
無防備なMkoのオデコを突いた。
この時、お互いが、
何もそんなに意識をしないでも良かったのに、これが、二人の戦いの合図になってしまった……
「 はあァ~? 高校生ダッテ、
そんな言い間違え
しませんけどねェ!」
いったい、何故、
そんなことでこれほどムキになるのか、Mkoにも分からないが、まるで、条件反射のように速攻に反応してしまった。
……ヤダ、ナニ、コレ、いきなり、私、思いっきり拒否反応が強く出てしまったみたい。どうしよぉ…… デモ、「高校生」って、なに? 初対面で? ダイイチ、このオバサン私に、そんな事言うかなあぁ…… ハ・ラ・タ・ツ!
「 だって、こんなことで、
誰も笑ってないじゃないか… 」
手のひらを上に向け、
「分かりません」のポーズを決めながら、それでも吉川館長は、Mkoに突っかかってきた。
館長も館長だ、
初日に職員に絡みだすなんて、イイ度胸をしているし、ヨリにもヨッテ、男嫌いのMkoに絡むなんて。ましてや、この馴れ馴れしい態度は、なかには喜ぶ人もいるかもしれないが、相手を間違っている。
それは、Mkoではないのだ。
これでは、お互いに、
相手を読み間違えているようだ。
そして、さらに「お互い」が、
もっと二人の関係を勘違いさせる。
この一件の後、
Mkoは、吉川館長に対し、普段の対応でも常に戦闘モードになってしまっているし、
吉川館長は、
逆にMkoに親近感を持ってしまったようで、
Mkoの不安は的中するかのように吉川館長が仕切るシフト決めの際に、
さらなる事件は起きた。
「……では、ようやく、
年初の忙しさも落ち着いて
きたので、これから暫くの間、
シフトは二人組で回していきます。
それでは、
僕、吉川とMkoさんの組と……」
… は ? …
どうしてそうなるのか、
火に油を注ぐ。
駆け馬に鞭都のように、
Mkoの鼻息は荒くなる。
この吉川館長が着任するまでの、ほんの少しの前までは、Mkoにとってこの職場はとても平和だった。
とても仕事人として充実した毎日だった。走馬灯のように、そんな楽しかった仕事場での日々が、徐々に色が薄くなってMkoの頭の中でグルグルしていた。
……なんてこと... だろ……
嫌だこんな目に合うなんて……
もう、それからは、
Mkoには吉川館長との戦いの毎日だ。
「 アレッ?
この会議室の利用って、
これは、翌月だから、まだ、
仮予約になるんだよね?
料金は、
まだでイイんでしょ?」
今まで大きな施設に勤務していた吉川館長は、この窓口のように、なんでも一人でこなしてきたわけではないようで、Mkoにとっては基本中の基本の事でさえ確認をしてくる。
「 そうです!
できないのなら、
やらないで下さい。
かえって仕事が増えますから。
そんな事までできないなら、
窓口じゃなくて、
設備点検とか、して下さいヨ!
どうぞ、
行っていらっしゃいマセ!」
「 そ・う・な・ん・だぁ …
じゃぁ、
受付嬢をお願いします。
来場者には、穏やかな、
優しい笑顔の対応を
お願い、します」
「 はい、モチロンです。
若くはないので
娘ではありませんが!」
「 そ・う・で・す・ね!
では、点検に行ってきます 」
「 お願いします。くれぐれも、
何も壊さないでクダサイネ!」
「 あぁ~?
機械は大人しく向こうからは、
言い返しては、きませんから、
大・丈・夫 です!」
吉川館長は、その場から逃げ出すように素早く壁際のキャビネットの中から懐中電灯を取り出すと、Mkoに背中を向けたまま、
足早に後ろに向かって「バイバイ」と手を振り、窓口から離れると、それで、もう、何事もなかったかのように速度を緩めてマイペースに去って行った。
Mkoは窓口に座ったまま、
憮然たる面持ちで真正面を見据えていた。
この二人、温度差もあるのだろうか、吉川館長は、初日からずっと、Mkoを小ばかにしたような、余裕があるような感じがするが、
Mkoは、男の上の立場の人が、何気なくでも、こうした態度に出られるとサラッと、流すことができなくて、全く理解ができないので、段々と、ストレスが溜まっていくようだ。
これが、子供の頃からずっと、
Mkoにとっての一番の苦手なことなのだ。
きっと、Mkoが吉川館長を嫌がれば嫌がるほど、館長は面白がっていじってくるのはMkoにも分かっている。
でも、Mkoはそれでも、普通に吉川館長には接していけないのだ。
「 嫌がっているフリをしている 」のではなく、それほど、心の底から、このような関係は苦手なのだ。
だから、吉川館長が、普通に物事を尋ねてきたリ、話しかけてきても、Mkoは、つい、嫌味を言ってしまう。
そんなことは、おかしなことも、失礼なこともMkoには分かっているが、どうしようもない。
…… どうして、いつも、
こうなって ... しまうの ……
Mkoは、吉川館長を悪い人間だと思っているのではなく、「自分は人にできる事ができない」と忸怩たる思いがイッパイで胸のあたりが押し潰されそうに苦しくなっている。
……他の人だったら、吉川館長との関係も、きっと、こんな風にならないんだよねぇ…… 私、職場の雰囲気を悪くしているんだよねぇ……
おそらく、この二人のやり取りを偶然に見ていた人からは、単なる痴話げんかのように思ってしまうのかもしれないが、Mkoにとっては、深刻な問題なのだ。
こんなこと、早く克服して、吉川館長に対して普通の対応ができれば良いのにとは分かっていても、それが本人が認識している、
過去のトラウマが原因ならば、どうにかそれを克服するように徐々にでも対処すれば良いのかもしれないが、何がきっかけでMkoがそうなったのかを本人も分かっていないので、何故かいつもこうなってしまうのだ。
たとえば、違う見方をしてみれば、
今回、初対面で、Mkoが吉川館長に対して失礼があったとしても、吉川館長がそれを気にせずに関わらなければこんなに急激に酷い関係にならなかったのかもしれないし、
他人を責めるわけではないが、そもそも、周りにも人がいる中で、初対面の大人の頭を「コツン!」と突く方もどうかと思うのだが。
けれど、まぁ、このように、Mkoにとっては嫌悪感を抱く男の上司からの行為は、他の人、もし、頼子さんだったら、きっと、こんなには気に留めず、きっと、さらっと流せるだろうとのことも分かるので、
これは、Mkoの「潔癖な性分だから…」とでも理解してしまうのが楽なのかもしれないが、このままでは、事態は悪くなる一方だ。
……ナンデ、吉川館長と組まされたんだろう、違う人と組んでもらえたら良いのに……
Mkoは、せっかく今まで、
自分なりに女を捨てて、女性の中で頑張ってきたのに、こんなことで、その関係も台無しにさせられるのも、
たぶん当分、このままだと、吉川館長からの仕打ちも繰り返されるかもしれないとのことも、「屈辱」で、それらがイッパイになって、苦手な吉川館長に向かってしまうのだ。
……コンナコト ... 普通の人には何でもないことで、悩まないようなことだから、誰にも相談できない。
「 他人は自分が思うほど……」などとも聴くけれど、吉川館長と組まされたことで、他の人たちと一緒にいる時間も少なくなって、なんだか距離ができてしまったのも事実なのだし……
窓口のカウンターで、目の前にある事務処理にも、何も手をつけることもできないまま、Mkoが、ただ座り続けていると、ようやく、Mkoに云いつけられた設備点検を終えた吉川館長が、スッキリとした顔になって戻ってきた。
それを待っていたわけではないが、
曇った表情のままMkoは声をかけた。
「……吉川館長、点検、
有難うございました。
……いま、
少しお話しても、
宜しいでしょうか?
私、もうそろそろ、
シフトの組替えをした方が
良いと思うのですが、
如何でしょうか?」
これは唐突なMkoからの申し出なのに、吉川館長はさほど表情を変えることなく、カウンター越しに、ちょうどMkoの真正面に立ち、そこから身を乗り出すように顔を近づけ、Mkoだけに聴こえれば十分なくらいの声でゆっくりと答える。
「 ぅん?
た・だ・い・まぁ……
あぁ、まぁ、それは……
君が、決めることじゃ
ないよなぁ…」
「 いえ……
ですが……」
「 あのぅ、スミマセン。
えぇとぉ~、
2か月先なんですけれど、
こちらの大ホールの空いてる日、
教えて頂けませんか?」
窓口のMkoが俯いていて、カウンター前には吉川館長がそのMkoに向かって立っていたので、申し訳なさそうに館長の背中越しに、「それでも私にはあまり時間がありません」かのような、スマホを耳にあてたまま、遠慮しがちに来場者が尋ねてきた。
「 はい… 2カ月先でしたら、
平日は、どうにか、まだ、
空いている日がございますので、
ご希望のお日にちを、いくつか
お聞かせ下さい。それと、
ご利用目的は……
どのようなことでしょう、
こちらは公立の施設なので、
ご利用内容によっては、
お申込みいただけませんので、
お聞かせ頂けますでしょうか?」
来場者の登場で、
スゥ~ッと、周囲の空気が変わり、やっと、仕事中の緊張感が、Mkoに戻ってきた。吉川館長も事務机に戻り、書類のチェックを始めた。
この女性は、社用で来たようで、耳にあてたスマホで確認しながら手続きを始めた。
「 アッ……
ハイ、承知しました……
あのぉ、10日前後と、20日前後
の平日でしたらどうですか?
利用目的は、
マンション建設の近隣住民説明会
なので、… ええとぉ、
控室もお借りして、そこで、
事務作業もしたいので、椅子だけ
ではなくて、テーブルもあると、
助かるのですが……」
「 あっ、ハイハイ、スミマセン…
… ええとぉ、あのぉ、それと、
予備の日でもう1日、やはり、
その近くの平日で、おさえて?
おきたいんです・け・れ・ど… 」
彼女はまだ、新人さんなのか、
スマホをそのままに、片手でメモをとる。懸命に、聴こえてくる声に集中しながら「ナンとか、ちゃんとしなければ」とのことが可愛らしい…… Mkoはなるべくゆっくりと、電話の向こうまで届くように説明をする。
「 それでは、利用目的は、
マンション建設のための、
近隣住民の方々への、
説明会ですね? はい、
大丈夫です。2カ月先ですと、
本日は、まだ、
仮予約になりますが……」
「 そうですね、平日の、
10日の火曜日、20日の金曜日と、
予備日は、24日の火曜日で、
如何ですか? ご質問の……
控室にテーブルセットは入ります
のでご安心ください。この控室も、
同じ日に、仮予約を入れますね 」
「 それと、大ホールのご利用は、
そちらの、当日の責任者の方に、
こちらから、
避難経路のご説明や、消火設備
などのご説明なども
必要になりますので、ご利用日の
1月前には、一度、
こちらの担当職員との、
お打ち合わせを行います……」
「その日には他にも、
音響・映像設備などのご使用
確認や、それぞれの料金の、
お支払手続きなども合わせて
行えますので、
お日にちが決まりましたら、
なるべく早く、
お電話でご連絡をいただき、
お打ち合わせの当日は、
御担当の方数名で、こちらの
窓口へお越しください…」
「 ここまでで、
何かご質問はございますか?」
大きくうなずきながら、電話先にまでMkoの声がちゃんと聴こえるように、小さいので背伸びをしたまま、カウンターに身を乗り出している新人さんは、まだ、少し不安そうにスマホに尋ねる。
「 あのぉ、聴こえましたか?
お電話代わって頂いた方が
よろしいでしょうか? アッ、
ハイハイ、メモはとっています。
お日にちは、
火曜日だと休日出勤ですよね?
大丈夫ですか?
あっ、そうですね、控室も、
ハイ、大丈夫みたいです。
ハイ、スミマセン。資料も、
お願いして、ハイ、
頂いてみます。ハイ...」
「 … ええとぉ、スミマセン、
ここの利用案内などの資料を
頂けますか? … ええとぉ、
それぞれの料金も分かる
みたいなカンジのもの、
ありますか?」
「 はい、今、ご用意しています。
そうですね……
ここのホームページからも、
ご予約状況や施設のご利用方法
のご案内、各施設や設備の
ご使用料金などもご確認
いただけますので大丈夫ですよ。
また、何か、
ご不明なことがございましたら、
どうぞ、お電話下さい。こちらは、
夜の10時まで
窓口は開いておりますので」
「 アッ、ハイ、そうですよね!
確認します。たぶん、
大丈夫だと、思います 」
ようやく、
新人さんは落ち着いてきたようだ。スマホをカウンターに置き、メモをまとめ、受け取った資料の内容確認も済ませ、仮予約申込書に記入もできた。
ここまでくれば、手続きもほとんど終わり、やっと、新人さんは電話もひとまずは切ることができた。
Mkoは、「一人でお使いを頑張った」彼女を、安心させるように、カウンターの外側に廻って寄り添った。
お渡しした資料や、彼女がメモをした内容にまで一緒に目を通して、忘れ物がないように、指差し確認をしながら、それらを一つにまとめて、彼女がバッグに入れるまでをみとどける。
「 お疲れ様でした。
今日はこのまま、
直帰できるんですか?
これから、
会社に戻るんですか?
お荷物増えてしまって
大変ですね…」
もう出ようと、
バッグを肩に掛けると、その、少し重さの増した大きなトートバッグに身体が傾いてしまうし、折り目もはっきりと目立つ、ビジネススーツが、まだあまり似合わない彼女に、
自分の子供をみるときのように、つい、手を出してしまったようで、Mkoはあらためて、少し距離をとりながら彼女を送り出す。
自分の性分を分かっているのに上手く扱えないで、ときに、対峙する人には失礼な態度をとってしまうのに、
仕事で向き合う人には、初対面でも、こんなに相手に寄り添える対応ができるMkoを、吉川館長は、書類チェックの手を休めずに、
ちょうど良く離れたところで着席したまま、ただ、目で追うだけだった。
大丈夫 ......
頑張っている人と一緒に仕事をする、と、その本人は気づいていないけれど、周りの人には、ちゃんと、伝わっています。
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