柚子

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 しかし、買うのは檸檬ではなく、もちろん柚子だ。  私はその紡錘形をした単色絵具のように黄色い果実の周囲を見回すと、同じく目に眩しい太陽の色をした柚子を探し出し、ただ一個だけ買ってその店を後にした。  柚子湯に使うには足りない分量だが、私が企てた計画を実行するにはこれ一つで充分である。  むしろ大量に柚子の入ったビニール袋を手に提げていたのでは、逆に目立って計画実行に支障をきたす。  寒々とした冬の路上を再び歩き出した私は、今しがた購入したばかりの黄色い実を改めてじっと見つめる。  外気の寒さとは裏腹に、悪だくみへの興奮からか妙に熱を帯びている私の手のひらに、その瑞々しい冷たさがなんとも言えず心地よい。  そのままそれを顔の高さまで持っていって匂いを嗅ぐと、檸檬以上に強烈で爽やかな柑橘系の香りが私の鼻を()った。  そのどうにも甘酸っぱい香りに、まるで青春を謳歌していた少年時代の肉体の如く、この疲れ果てた体の内にもますます生気とやる気が目覚めてゆくのがわかる。  この視覚、この冷覚、この嗅覚……寒空の下、不気味に賑わう街を当てもなく彷徨い、わたしがずっと探し求めていたものはこれなのだ!   だから、冬至には柚子だったのだ!  わたしは今一度、その神聖なまでに芳しい空気を胸いっぱいに吸い込むと、標的の待つ約束の場所へと向かうため、ケバケバしくも光輝く街の中を盲目に闊歩して突き進んだ。  しばらくの後、私はある書店の前に立っていた。  「○に善」と書く、当時、三条通にあったという店舗とは場所も建物もまるで違うが、同じ系列の老舗書店である。  小説『檸檬』が発表され、絶大な人気を博した当時は模倣犯が後を絶たなかったようであるが、それから何十年という時を経て、この令和新時代にまた現れるとは思ってもみないことであろう。  私はお気に入りの黄色いそれをロングコートのポケットに忍ばせ、なに喰わぬ顔で店内へと侵入した。
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