【1分で読める短編小説】幸福

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 専業主婦、軽井沢レイコにとって、嫉妬はするものではなくされるものだった。雑誌のモデルのようにきれいにカールしたロングヘアとストーンが光るネイルがそれを物語っている。  レイコは、生まれながらにして全てを手にしていた。中高一貫教育の女子高から付属の大学へと進学し、卒業と同時に結婚した。  なぜ友達は、仕事や勉強をしたがるのだろう。あんな退屈でつまらないこと。女の子は可愛らしくして、愛されていればいいのだ。    遊べなくなるから子供は作らなかった。親はうるさいから会わないようにしている。夫婦2人には広すぎるほどのマンションで、自由気ままな生活。  大型液晶テレビでCSチャンネルを見ていると夫が帰宅した。 「レイちゃん、今年の夏はモルディブにしようか」 「嬉しい!」  レイコは、飛びついてキスをした。湧き上がるような幸福を味わう瞬間だ。私ほど幸せな人はいないわ。これ以上、何かを望んだら、バチが当たるわ。  ある日、馴染にしているネイルサロンの一軒に行くと、受け付けに見覚えのある顔を見つけた。大学時代の友人、高橋あゆみだ。 「随分、久しぶりね。ここでアルバイトしてるの?」 あゆみは笑って首を振った。「店長よ」。  大学時代は合コンに誘い合う「親友」だった。卒業してからも付き合っていたのだが、ある時から疎遠になっていた。  「ご主人は元気?お子さんは?」 あゆみは、照れくさそうに笑い、 「皆、元気よ。上の娘は大学生になったわ」 大学生の娘がいるお母さんとは思えない、と言いたげな顔をしているスタッフがレイコをサロンに案内する。  あゆみに古いエナメルをクレンジングしてもらいながら、あゆみとのことを思い出した。  女の子3人の子育てで、あゆみは育児ノイローゼだったのだと思う。 溜息をつきながら、こう言ったものだ。 「子供なんて生まなきゃよかった」 あゆみを慰めながら、レイコは勝ち誇った気持ちで一杯だった。ほらね。子供なんて生まなければよかったのよ。ずっと私と遊んでくれればよかったのよ。  女同士の「何でも打ち明ける」という暗黙のルールが互いを傷つけ、自然に距離ができていった。  今のあゆみは、子供を育て上げた満足感で満ち足りた顔をしている。 「お子さんたちは?」 「上の子は大学生になったわ。3人年子だから高2と高3。」  子供の手が離れた頃、思い切ってネイルアートの学校に通ったと言った。35歳からのスタートだったと。 「主人の理解と子供たちの協力で、ここまで来れたの。今では、食事も洗濯も、全部、娘たちがやってくれるのよ。子供なんて生まなきゃよかった、なんて思ったこともあったけど、今では子供たちに支えられているわ。」  すると、カウンターで片づけものをしていた女の子が気恥ずかしそうな笑顔をした。 「もしかして?」 「長女よ。」 あゆみはウインクをした。「美容の業界に興味があるっていうから、アルバイトさせているの」。  レイコは、改めて長女の顔を見た。ウェーブがかかった肩までの髪をグルグルとねじってピンでまとめている。まだ人生はこれから、という大学生の彼女は、20数年前のあゆみだった。  ネイルサロンを出て、レイコは歩きながら考えた。 遊びの時代はあっという間に過ぎ、レイコは52歳になっていた。昔の友達は、いつの間にかいなくなっていた。主婦になってからできた友達も、2年も付き合うと、働きたい、資格を取りたい、ビジネスを始めたいと言って離れて行った。「目標」というやっかいなものを持たない人たちは、子供の受験や親の介護といった問題を抱えている。  レイコは、煩わしい問題とは無縁だった。年老いた両親は、浜辺の老人介護付きヴィラに入所させたから、月に1回、ドライブがてら会いに行けばいい。インテリアのお花は、管理が楽なプリザーブド・フラワーだ。庭の手入れは、週に1回、マンションの管理会社がやってくれる。  この宝石のような両手を汚すようなことは、何もないのだ。ただひとつ、孤独を除けば。    その夜、帰宅した夫が言った。 「レイちゃん、お正月はグアムに行こうか。」  そうよ、私には全てを与えてくれる大好きな夫がいる。他人を羨ましいと思うことなんかない。 「嬉しい!」  レイコは夫に抱き付き、今日、あったことを話した。若い後輩たちに慕われ、憧れと尊敬の眼差しを向けられているあゆみの満ち足りた顔が、一日の労働でぐったりと疲れ、将来の不安に溜息をついている様子を想像した。  そう、私は幸せなのだ。これ以上、何かを望んだらバチが当たるくらい幸せなのだ。 レイコは何度も繰り返し、自分に言い聞かせた。私は幸せなのだ、私は幸せなのだ、と。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!