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とある十二月の夜、ぼくはケヤキ並木を見上げながら歩いていた。
午後八時半、塾帰りのぼくは絶望していた。中学受験まであと二ヶ月なのに、最後の冬期講習で「Fクラス」になってしまった。春は「Bクラス」だったのに、早い話が「落第」のはんこを押されてしまったのだ。
ケヤキ並木の安っぽいイルミネーションを見上げながら、お母さんにどう説明しようかとため息をつく。去年まではクリスマスだプレゼントだと浮き足立っていたのに、今年はそれもおあずけだ。
夜空に輝くシリウス、プロキオン、ベテルギウスまで参考書の文字が見えて嫌気がさした。肩を落としたまま薄暗い道を歩いていく。
そのとき何かが光った。ぼくが住んでいる団地は二年後に立て替えが決まっているので空き家が多い。わずかな明かりをたよりに五階建ての建物をぐるりと見渡す。
気のせいだったのかなと歩き出すとまた光った。今度は気のせいじゃない。ひっしになって目をこらし、光のもとを探る。
すると三階のベランダから突き出した筒のようなものが光った。光ったり消えたりするのは誰かが筒の向きを変えているからだった。
通塾用の大きなリュックを背負ったまま、ベランダの真下まで走る。白い息を吐きながら見上げると、頭上から何かが落ちてきた。
それは白い布切れだった。なんだろうと思って拾い上げ、「ぎゃっ」とぼくは叫んだ。
「あ、ごめんごめん。それ私のパンツ」
例のベランダからメガネをかけた女の人が顔を見せた。「パンツ」の言葉にぼくはまた叫んで地面に放り投げる。
こんなところを塾仲間に見られたら最悪だと思うのに足が動かない。そうこうしているうちに黒いダウンジャケットを着た女の人がやってきた。
「あれ、どこだ?」
ぼさぼさの長い髪をふりながら辺りを見渡す。ぼくが思わず枯れた草のあたりを指さすと、汚れたスウェットにサンダルをはいたその人は「ああどうも」と白い布切れをポケットにつっこんだ。
ぼくが顔を真っ赤にしていることに気づいたのか「ウブだな、少年」と笑った。バカにされた気がしてぼくは肩をいからせる。
「世話をかけたな」
そう言って立ち去ろうとしたので、ぼくは思わず声を上げた。
「あのっ……光!」
「なんだ?」
「ベランダで何か光ってたんですけど……」
「ああ、あれは天体望遠鏡だ」
「天体……望遠鏡?」
「そう、少年の目玉がとび出すくらい値の張る代物だ」
「ぼくの目玉はとび出したりしません」
「モノの例えだよ、おかたいねえ」
そう言って女の人はポケットからタバコを取り出した。暗闇にライターの火が灯り、焦げくさい匂いがしたかと思うと、その人はうまそうに吸い始めた。
「不良……」
「三十路のおばさんがタバコ吸って何が不良だよ」
煙を吐き出すとおかしそうに笑い始めた。目元をくしゃっとした笑顔にぼくもつられて笑ってしまう。
「少年、こんな遅い時間に何してるんだ」
「塾から帰るところです。もうすぐ受験なんで」
「中学受験か、大変だな」
「あなたは何を見てたんですか?」
「ん? ああ、夕方に宵の明星が光ってただろう。二週間後に金星と土星が最接近するから、撮影のためにセッティングを繰り返しているところなんだ」
「金星と……土星」
その言葉に胸が高鳴る。ぼくは自分の天体望遠鏡で天体観測をしたことがある。持っている友達がうらやましくて去年のクリスマスに買ってもらったのだ。けれどお父さんもお母さんもそういうものに疎い人たちで、まともに天体をとらえられたことがない。ただ「観測」っぽいことを繰り返しているだけだ。
この人は天体観測のプロなんだろうか。このだらしない服装とメガネ、ぼさっとした髪型がいかにも研究者という感じがして、ぼくは興奮した。
「あのっ! ぼくでも見られますか?」
「金星は肉眼でも見える」
「土星は見えないんですか?」
「並みの望遠鏡じゃ難しいだろうな」
そう言いながら手早くタバコを吸うと携帯灰皿に押し込めて立ち去ろうとした。ぼくはあわててその人のそでをつかむ。
「ぼくも天体を見てみたいんです! 見せて下さい、お願いします!」
「……は? 私の望遠鏡でか?」
「そうです、ぼくひとりだとうまく見れないんです」
「そうか、それは残念だ」
ふり切って行こうとしたので今度は腕をつかんだ。
「どうかお願いします!」
「まいったな」
「この通りです!」
深く頭を下げると女の人は困ったように頭をかいた。塾帰りに寄り道して何を言ってるんだと思ったけれど、見れないと言われるとよけいに見たくなってしまう。
「どうしてもか」
「どうしてもです!」
「……じゃ、来るか」
女の人は困った顔のまま首をかしげた。今招かれるとは思っていなくてびっくりしているぼくにその人は言う。
「初心者ならある程度は練習しないと見られない。特に土星はな。折りよく木星が金星に最接近したときの写真がある。ただし私が連れ込んだとか言うなよ」
その人は外灯の淡い光を浴びてぼくを見ていた。メガネをかけたその瞳は、夕闇に浮かぶ宵の明星みたいに輝いている。
「やっぱり止めとくか、捕まるな、私」
「行きますっ! 誰にも言いません!」
「声がデカいよ」
「ごめんなさい……」
小声で言ったあと、目を合わせて笑った。ぼくは忍び足でそっと女の人のあとについて行った。
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