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第1話 頼れるあいつは就寝中③
私がうっかり不平めいた調子で尋ねると、雷郷は二、三度目を瞬いた後「なんだ、そんなことか」という表情になった。
「君さあ、確か事故で頭を打って生死の境をさまよったことがあるんだよね。その時誰かに会わなかったかい?」
「会うって、病院でですか?……先生と看護師さんには会いましたけど」
私が正直に答えると、雷郷は目の前でちっちっと舌を鳴らしながら指を振った。
「違うよ「あの世」でだよ。覚えてないの?」
「あの世……残念ですがあの世に行く前に運よく戻って来られました」
「そうかあ。覚えてないんじゃあ、しょうがないな。……まあ、そのうち思い出すだろう」
雷郷は意味不明の文句を口にすると、驚いたことに部屋の隅にある長椅子に、ごろりと横になった。いくらひまとはいえ、来客中の態度とは思えなかった。
「あの、それで今日はこれから何をすれば……」
私が指示を請うと、雷郷は「何もしなくていいよ、僕はひと眠りするから」と言った。
「えっ、寝るって勤務中に……ですか?」
「うん。そろそろ「あいつ」に運動させないとストレスが溜まっちゃうからね」
私は思わず首をひねった。「あいつ」っていったい、誰のことだろう。運動させなきゃ、なんて犬じゃあるまいし。
「あ、それから僕が寝ている間に「僕じゃない奴」が起きたら、冷蔵庫にあるパンと牛乳を出して。あ、それともラーメンがいいかな。僕が起きた時、お腹が空いてるだろうから」
雷郷の言葉は隅から隅まで意味不明の連続だった。目の前ですうすうと心地よさげな息をし始めた雷郷に私は慌てて問いを放った。
「あの、さっきから「あいつ」とか「僕じゃない奴」とか。いったい誰の事なんです?」
「……会えばわかるから、本人に直接聞いてよ。大丈夫、隣の三途之町にいる従兄についてる奴よりはおとなしいから」
「三途之町?従兄?」
「そう。僕と違ってできる奴さ、六文は。奴についてる「相方」もね。……おやすみ」
そういうと雷郷は目を閉じ、呆れた事にぐうぐうと本格的な寝息を立て始めた。まいったな、他にこの部署の職員はいないのかしら……私が途方に暮れかけた、その時だった。
「……ふう、珍しく真面目に働きおったようだな。お蔭で体がなまって仕方ないわい」
まぎれもなく雷郷の、それでいて妙に低くしわがれた声が背後から響いた。思わず振り向いた私の目に、上体を起こして不敵な笑みを浮かべている雷郷の姿が飛び込んできた。
「あ、あなた……雷郷さん?」
私が恐る恐る尋ねると、雷郷はゆっくりと頭を振った。
「聞いていなかったのか?わしは……」
明らかに雷郷の姿の、それでいて「雷郷ではない誰か」が言い放った、その時だった。
「あ、桜城さん、今日は弟しかいないみたいだから、挨拶が済んだら退勤していいそうよ」
名月さんがドアを開けて姿を現し、同時に雷郷が「むっ」と唸ってがくりと項垂れた。
「ちょ、ちょっと、雷郷さん?」
「大丈夫よ。また弟に戻るだけだから。「あいつ」、私が苦手らしいのよ」
慌てて駆け寄ろうとする私を、名月さんが声で制した。
「あの、「あいつ」って……」
「うふふ、今にわかるわ。少なくとも弟ほどポンコツじゃない事は確かよ」
名月さんは雷郷と調子を合わせるかのように謎めいた言葉を残すと、廊下に姿を消した。
私は再び長椅子で寝息を立て始めた雷郷を見ながら、私は今日、挨拶したこの男はいったい何者なのだろうかと訝った。
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