荀彧伝

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明けましておめでとうございます。 今年もよろしくお願いいたします。 後漢書荀彧伝、完。 14. 十七年,[一]董昭等欲共進操爵國公,[二]九錫備物,密以訪彧。彧曰「曹公本興義兵,以匡振漢朝,雖勳庸崇著,猶秉忠貞之節。[三]君子愛人以德,不宜如此。」事遂寑。操心不能平。會南征孫權,表請彧勞軍于譙,因表留彧曰:「臣聞古之遣將,上設監督之重,[四]下建副二之任,所以尊嚴國命,[五]謀而鮮過者也。臣今當濟江,奉辭伐罪,宜有大使肅將王命。文武並用,自古有之。使持節侍中守尚書令萬歲亭侯彧,國之望臣,德洽華夏,旣停軍所次,便宜與臣俱進,宣示國命,威懷醜虜。軍禮尚速,不及先請,臣輒留彧,依以爲重。」書奏,帝從之,遂以彧爲侍中、光祿大夫,持節,參丞相軍事。[六]至濡須,[七]彧病留壽春,操饋之食,發視,乃空器也,於是飲藥而卒。[八]時年五十。帝哀惜之,[九]祖日爲之廢讌樂。謚曰敬侯。明年,操遂稱魏公云。 註1.昭字公仁,濟陰人也。 註2.禮含文嘉曰:「九錫一曰車馬,二曰衣服,三曰樂器,四曰朱戶,五曰納陛,六曰虎賁百人,七曰斧鉞,八曰弓矢,九曰秬鬯,謂之九錫。錫,與也,九錫皆如其德。」《左傳》曰:「分魯公以大路大旂,夏后氏之璜,封父之繁弱,祝宗卜史,備物典策。」 註3.禮記曰「君子之愛人也以德,細人之愛人也以姑息」也。 註4.史記,齊景公以田穰苴爲將軍,扞燕。苴曰:「臣素卑賤,擢之閭伍之中,加之大夫之上,士卒未附,百姓不信,權輕,願得君之寵臣,國之所尊,以監軍,乃可。」景公許之,使莊賈往。即監督之義也。 註5.左傳曰:「謀而鮮過,惠訓不倦。」 註6.濡須,水名也,在今和州歷陽縣西南。吳錄曰:「孫權聞操來,夾水立塢,狀如偃月,以相拒,月餘乃退。」 註7.壽春,縣,屬淮南郡,今壽州郡也。 註8.獻帝春秋,董承之誅,伏后與父完書,言司空殺董承,帝方爲報怨。完得書以示彧,彧惡之,隱而不言。完以示其妻弟樊普,普封以呈太祖,太祖陰爲之備。彧恐事覺,欲自發之,因求使至鄴,勸太祖以女配帝。太祖曰:「今朝廷有伏后,吾女何得配上?」彧曰:「伏后無子,性又凶邪,往甞與父書,言詞醜惡,可因此廢也。」太祖曰:「卿昔何不道之?」彧陽驚曰:「昔已甞爲公言也。」太祖曰:「此豈小事,而吾忘之!」太祖以此恨彧,而外含容之。至董昭建魏公議,彧意不同,欲言之於太祖,乃齎璽書犒軍,飲饗禮畢,彧請間,太祖知彧欲言,揖而遣之,遂不得。留之,卒於壽春。 註9.祖日謂祭祖神之日,因爲讌樂也。風俗通曰:「共工氏子曰脩,好遠遊,祀以爲祖神。漢以午日祖。」 (訳) 十七年(212)、※董昭(とうしょう)らは共に 曹操の爵位を国公まで進めんと ※九錫の礼物を備え、 密かに荀彧のもとを訪った。 (※註1.董昭は字を公仁(こうじん)済陰(せいいん)の人である) (※註2.礼緯含文嘉(れいいがんぶんか)にいう、 「九錫の一は車馬、二は衣服、三は楽器、 四は朱戸、五は納陛、六は虎賁百人、 七は斧鉞、八は弓矢、九は秬鬯(きょちょう)をいい、 これらを九錫と謂う。 錫は、(あたえる)である。 九錫は皆、その徳の如く」 左伝にいう、 「魯公に分して大路(たいろ)[車]・大旂(たいき)、 夏后氏の(こう)[宝玉]、 封父の繁弱(はんじゃく)[弓矢]、 大祝(たいしゅく)宗人(そうじん)大卜(たいぼく)大史(たいし)[官名]、 備物、典策」) 荀彧は言った。 「曹公は本来、義兵を興す事で 漢王朝を匡弼・振興いたさんとお考えで、 勲庸(勲功)は高く顕著と雖も なお忠貞の節義に則っておられる。 ※君子は徳義を以て人を愛するのだから そのようにするのは宜しくない」 (※註3.礼記(らいき)にいう、 「君子は徳義を以て人を愛し、 細人は姑息を以て人を愛するのである」) この事はかくて寝かされが 曹操は内心穏やかではなかった。 ちょうど南方の孫権の征伐のおりで、 上表して荀彧に 譙で軍を慰労するよう要請し、 (一方で)荀彧を(軍中に)留めるよう 上表してこのように述べた。 「臣は、古代にて遣わされる将とは 上には※監督の重役を設け、 下には副次の任務を建て、 国命を尊ぶこと厳粛で (はかりごと)に※過ちの(すく)ない者であると 聞き及んでおります。 (※註4.史記にいう、斉の景公は 田穰苴(でんじょうしょ)を将軍に任命して 燕を(ふせ)ごうとした。 田穰苴は言った。 「臣はもとより卑賤の身でして、 閭伍(庶民の居処)の中から抜擢され 大夫の上賓を加えられましたが、 士卒はいまだに懐附せず 百姓からは信頼されておりませぬので 権限が軽んじられましょう。 願わくば、国家が尊崇するような 君の寵臣を得まして、その者を 監軍に任命すべきだと存じます」 景公はこれを許可し、荘賈(そうか)を行かせた。 即ち、監督の義である) (※註5.左伝にいう、 謀に(あやま)ちの(すく)なく、 教訓を恵むことに()きぬ者は…… [叔向(しゅくしょう)がこれに当たります]」) 臣は現在、済水・江水の罪人を討伐し 大いに(孫権めに)王命を 奉らせるべきと考えております。 文と武をともに用いることは 古代よりの習わしであります。 使持節(しじせつ)侍中(じちゅう)守尚書令(しゅしょうしょれい)万歲亭侯(ばんざいていこう)の荀彧は、国家の 待ち望んでいた臣にございまして、 その徳は華夏(かか)に広く知れ渡り、 既に軍を停留させて 彼を宿泊させている所であります。 このまま臣とともに荀彧を進軍させ 国家の命を示し、醜虜(孫権)を 威風によって懐柔するべきかと存じます。 軍礼は速きを尚びまして、 以前の要請が及ばずにいたために 臣はこうして荀彧を留め、 彼を頼りに重任を果たそうと 考えております次第にございます」 上書が奉じられると、帝はこれに従い、 かくて荀彧は光禄大夫(こうろくたいふ)、持節、 参丞相軍事(さんじょうしょうぐんじ)となった。 ※濡須(じゅしゅ)へ至ると、荀彧は病によって ※寿春(じゅしゅん)に留められる事となった。 (※註6.濡須(じゅしゅ)とは水[河川]であり、 現在では()歷陽(れきよう)県の西南部にある。 吳録(ごろく)にいう、 「孫權(そんけん)は曹操の来攻を聞くと 川を挟んで偃月のような形状の (防壁)を立て、互いに(ふせ)ぎ合った。 一月余りで、かくて曹操は退却した」) (※註7.寿春は県であり、淮南郡に属す。 現在の寿州郡である) 曹操は荀彧に食事を贈ったが、 開けてみれば空っぽの器であり、 こうして薬を飲んで卒した。 ※時に五十歳であり、 帝は荀彧の死を哀惜した。 ※祖日の為の燕楽は廃され(中止になっ)た。 (けい)侯と諡され、 翌年、太祖は遂に魏公を称した。 (※註8. https://estar.jp/novels/25604982/viewer?page=113) (※註9.祖日とは、 祖神[氏神]を祭る日のことを謂い、 それに因みて宴楽を為すのである。 風俗通にいう、 「共工[水神様]の氏子は修といい、 遠遊して祖神を祀ることを好んだ。 漢代では午の日[??]を祖といった」)
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