散髪屋さん。

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散髪屋さん。

「ありがとうございましたァ~。またドウゾ~」 「こちらこそありがとう。またくるよ」  軽くお辞儀をする私の前を、機嫌よく通り過ぎて行く洋服の着こなしも物腰もダンディな、黒いベレー帽を被ったお客様は店を後にする。  そして私は彼の後姿を見送りながら後悔の念に包まれる。  言えなかった。  どうしても言い出せなかった。 「あの人の頭のてっぺんを河童みたいにツルッパゲにしてしまった(´;ω;`)」  そう、私は理容師にあるまじき失敗をした。  この道三十数年。  このようなしくじりをしたことはない。 「寝不足がいけなかったんだ。朝方までエロ動画を漁っていたのがいけなかったんだ」  お陰で私は理髪中についつい居眠りをしてしまった。  そして眠気(ねむけ)(まなこ)のボーっとした脳みそのままで顔剃り用の剃刀を手にし、あろうことか(ひげ)ではなく頭頂部の髪を御丁寧にシェーピング・クリームを塗りたくってジョリジョリやってしまったのだ。  私がそれと気付いた時は、もう何もかも手遅れだった。  ことの重大さに動揺した私は、その事実を彼に、ダンディーな紳士に(しら)せるよりも先に自身に課せられた仕事を終わらせないといけない。いや、早く終わりたいという気持ちが()ぎ、幸いにも何も知らず眠りこけていた彼を起こし、鏡に映る自分の頭が眼に入らぬようシャンプー台に(いざな)って丁寧に、それでいて慎重に、頭頂部のツルツルな部分があることを感付かれないように、理容師としてのプライドと神から授かったと自負して止まない天性の技術力を駆使して彼の髪を艶々に洗い上げた。  そして彼は乾かされて整えられた髪(河童スタイルヘア)にベレー帽を乗せ、満面の笑顔で帰っていった。  私は真実を明かすため彼を追いかけて謝罪すべきであった。罪を償うべきであった。  人として、ひとりの大人の男としてそうすべきであったのだ。  だが、今からでも遅くない。遅くはないのだと思いつつも、どうしても足が動かなかった。  なんかもういいや、どうにでもな~れ♪  っていう悟りに近い気持ちが、どうしても私の中で押さえられなくなったのだ。  その気持ちをより具体的に言葉にすると、こうだ。 「謝罪って、なんかスッゲーめんどくさいよね」  であった。  仕方なく私は脳内で彼に対する謝罪を適度に行いつつ、もしかしたら今すぐにでも彼が自身の頭髪が真ん中だけヌードな事実に気付き、怒鳴り込んでくるかもしれないことを恐れ、私は即座に店を閉店にしシャッターを閉じて、手にパスポートと現金と着替えを詰め込んだ旅行トランクの取っ手を握った。 「よーし!店は今から休業!ほとぼりが覚めるまで当分ハワイでバカンスをしょう。ほら、最近旅行とかしてないからちょうどいい機会だし」  そうさ!イヤなことはモザイクなしの本場のポルノで帳消しだ!  途端に私の傷だらけの心は心地よく弾んだ♪  さあ善はいそげだ!成田に向けて出発だ!!  念のため、彼に見つからないように変装として、彼の頭頂部からジョリジョリーナされた髪をまとめて即席で作った付け髭を、私は鼻の下にチョンと付けて表に出た。  すっかり伸びていた鼻の下だったから、チョビヒゲはとっても付けやすかったのが幸いだった♪  うへへщ(゜▽゜щ)〈カ-モン ベイベー アメリカ ! in ハワーイ! ナンカ エローイ!  うきうき気分の私は、最寄りの路線バスに飛び乗った。
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