ー Wish upon a star ー

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ー Wish upon a star ー

「あっ、戻って来た! 若旦那さんっ」  フロントのカウンターでそう叫んだのは、旅館の中でも古株の仲居だった。燕尾色の着物に白い帯姿の老仲居は、ようやく外から戻って来た跡取りを見るなり一気にまくし立てた。 「んもぅっ、どこまでお客さん探しに行ってたのぉ? 戻ってこないから熊にでも襲われたのかと――」 「岡田さんっ、特別室に新規1名入ります!」 「えっ!?」  ズンズンと早足でロビーを横切りながら、老舗旅館『花かぐら』の3代目跡取り―――滝沢春(たきざわ はる)は大声で叫んだ。耳に少しかかる程度の茶色いクセっ毛に、小さな輪郭の中で一際目立つ大きな瞳が印象的な顔。青年というより少年に近い中性的な面持ちは、27歳の男性とは思えない程に幼げだ。Yシャツ&ネクタイというフォーマル衣装の上から羽織りを着てなければ、地元の高校生と言っても通るだろう。  けれど袖を通している屋号入りの羽織りは、代々この旅館の後継者のみに継承される次期店主の証。老舗旅館の伝統を背負いながら、ハルは豪快にロビーを進んだ。右手にはボストンバックと黒いコートを、左手には恋人の手をしっかりと握りしめて、キョトンとしている老仲居を見向きもせずに指示だけ飛ばす。 「夕食は6時! 宿泊代は俺持ちで! 客室接待は不要!」 「やっ、ちょっと若旦那さんっ!?」 「電子予約ページに満室の表記出して下さい!」 「ちょっと若旦那さんッ!?」 「しばらく休憩入ります!!」 「若旦那さんッ、その外人さん誰なのぉ~ッ!?」  フロントで叫ぶ老仲居の声を背中で受け止めつつ、ハルは新規の宿泊客を引きずるようにして渡り廊下を目指した。途中、湯上りの日帰り入浴客とすれ違ったが、老若男女問わず皆が呆然と固まっていたのは、いつもどこか寂しげな跡取りが興奮気味に鼻を膨らませているからではない。  旅館の副主人に手を引かれている長身の外国人客は、桜の化身のように壮麗な男だった。濃紺のYシャツを纏う体は細身ながらも筋肉質で、きれいな逆三角形をしなやかに描いている。短く切り揃えられた黒髪は窓から差す日光で輝き、七三に分かれた少し長めの前髪が優雅に揺れていた。新雪のように白い肌、高すぎる鼻梁、綺麗な直線を描く眉と、切れ長なトルコブルーの瞳。面長の輪郭に全てが完璧に配置された隙の無い美貌は、まるで神に生命を吹き込まれた聖像のようだ。 「……なぁ、ハル……」  魔法で石にでもされたように立ち尽くす常連達の前を通り過ぎながら、美しい外国人―――デレク・シフォードは遠慮がちに声をかけた。フロントでまだ何やら叫んでいる老仲居をチラチラと振り返りつつ、早足で渡り廊下を進む背中に訴えかける。 「行ってやらなくていいのか? パソコンがフリーズしたようだぞ?」 「いいの!」  大声で返事して、ハルは数メートル続くガラス張りの渡り廊下を歩いた。本館と特別室を繋ぐ渡り廊下は美しい庭園を通り抜ける構造で、両サイドには岩と木々がバランス良く配された純和風の庭が広がっている。その廊下の奥に一棟だけ離れて建つのは、花かぐら自慢の特別室。    だが美しい庭園を楽しむ余裕などハルにはなかった。わずか数メートルの廊下でさえ今は長くてもどかしい。握りしめた手から伝わるデレクの温もりが、必死に保っている理性を急速に溶かしてゆく。一刻も早く2人だけになりたい。外界から隔離された密室で、6年間の空白を、空っぽになった心を、デレクの存在感と熱で埋め尽くしたい。唾液で溺れるぐらいキスをして、溶けてなくなる程全身を愛撫して、壊れるまで抱き潰したい欲求に全身が熱く火照っている。 「……着いた。ここが今夜泊まってもらう部屋だよ」  やっと辿り着いた特別室の前で立ち止まると、ハルはボストンバックとコートを絨毯に置いて、ポケットからマスターキーを取り出した。"若旦那"は皆が呼んでる愛称で、正式な役職は総支配人。旅館の経営から実務まで全てを統括する責任者は、用具室から特別室まで旅館の中ならどこでも入ることができるのだ。 「あぁっ、クソっ、手が震える……!」  なかなか鍵穴に入っていかないマスターキーを睨んで、ハルは小さく舌打った。緊張と興奮で手の震えが止まらない。それでも、ハルはデレクの手だけはしっかりと握りしめていた。もしこの手を離したら、デレクが消えてしまうのではないかと怖かったから。 「ハル……?」 「大丈夫っ、今開けるから待ってね!」  震えているのは手だけじゃなかった。視界も、声も、吐息も、恐怖と歓喜に揺れていた。  ほんの数分前まで、もう二度と会う事ができないと思っていたデレクが今、後ろにいる。  夢じゃない。  触れては消える幻でもない。  本物のデレクが今確かに、自分の手を強く握り返している。  正直なところ、頭の中はひどく混乱していた。6年前、CIAの追跡を逃れて一緒に逃亡した彼は、あの時、国際情報手配犯(ブルー・ノーティス)として死んだはずだった。  ずっと、彼の死と共に生きてきたのだ。  辛く悲しい絶望の日々の中で――― 「よしっ、開いたっ」 「……」  (ひのき)造りの引き戸を開けたハルの傍ら、デレクは興味深そうに室内を見つめていた。この部屋に案内された外国人が示すお決まりの反応。いや、日本人とてこの優美なしつらえには圧倒されるだろう。  広大な庭園の中に位置する平屋の別館、チシマザクラの間。玄関・和洋室・次の間・風呂場を合わせて30平米の特別室は、庭園に囲まれた完全プライベート空間で、優雅な時を楽しめる客室露天風呂が人気の高級別邸だ。桧造りの室内は和を基調としながらも、トイレやサニタリーは最新モデル仕様。寝室、浴室、洋間を入れて30畳以上の広さを誇り、庭園が一望できるよう部屋半面をガラスが覆う畳張りの休憩室は、全国のハイクラス客室20選にも選ばれた格式高い一室である。  濃緑の石畳が張り巡らされた広い玄関に入ると、まず目に飛び込んでくるのは千島桜が描かれた金屏風。桧の爽やかな香りが漂う玄関の隣には高級和紙で作られた襖があり、広い客室に通じている。  センサーで自動的にライトがついた玄関へ促すように、ハルは土間に足を踏み入れた。物珍しそうに金屏風を見つめているトルコブルーの瞳に向けて、理性を尽くしながら言う。 「中にどうぞ」  ひどく喉が渇いていた。  体が熱い。  早く中に――― 「デレク、入って」  中に入って……  早く抱きたい……! 「あ、靴は脱いでね」 「どこに置くんだ?」 「そのままでいいよ」
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