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さあ、お行き。カナン。
「トール……」
金の瞳に涙がもりあがる。大きな怪我はないみたいだな。カナンはいつも、むちゃをするから気が気でないよ。
歩くんだ。いつまでここにいる気だ。この日のために、遠く山々を越えてきた。めざす地は目前だ。
約束の日は、日没までにコトシュの谷へたどり着かなけりゃいけないと、カシャスがいつも口うるさく言っていたじゃないか。
言葉を交わせないのは、こんなにももどかしいのか。
カナンはおれの冷たくなった頬をなでる。手が汚れるぞ。今のおれは、返り血を浴びた顔、結っていた黒髪は、ほどけて血に浸された。深く刺された腹のあたりは、ことさら朱に染まっている。
骸など、捨て置いていけ。おれに構うな。
カナンの涙が、乾いた土にパラパラとこぼれる。
カナン……。
緋色の髪と黄金の瞳をもつ気高い尖耳族(せんじぞく)の末裔。
体を失っても、魂はいつまでもおまえを見守っている。
ろくでもない人生の終わりに、おまえと出会えた。
やせ細っているけれど、やけに満足そうな顔をしてるじゃないか、トール・ストライド。
失ったものと、得ものと。どちらが多かったんだろう。
なあ、カナン?
泣くな、泣くな。
こぼれる涙が雨粒みたいだ。
そういえば、おまえに初めて会ったときも、雨が降っていたな。
そのときのおれは、惨めな逃亡者だった。
さびれた村の宿屋も兼ねる酒場の片すみで、けだるく一日を潰す客にまぎれ、細かくふるえる指で杯をあおっていた。
軍から逃亡して十日。雨の中を行く当てもなく、やみくもに逃げてきた。乗ってきた馬は途中で捨てた。世話をみるほど気持ちに余裕はなく、なにより目立ちすぎる。
それからはひたすら歩いた。けれど、さすがに体力の限界を感じた。連日ろくに眠らず食べず、さらには雨で冷え切った体が、いうことをきかなくなったのだ。宿に泊まること二日。出立することもかなわず、気を失うように眠り、起きている間は、常にびくびくと追っ手が迫る予感に脅えていた。
そして、雨はもう一つの記憶を呼びさます。
初めての戦闘。十四才だったおれは迷わず剣の柄を握り、大人たちの後に続いた。すべての元凶である、奴らの住む村を滅ぼすために……。
それからは、争いの中に身をおいた。
切り殺した人数、滅ぼした村、陥落させたいくつもの城塞。
いままでの戦場が生々しく思い出される。……そして、やがてはおれもその死者の列に加わるだろう。それも遠くない未来にだ。
「この泥棒猫め!」
いきなり、鋭い声とはげしく水の中に倒れこむ音が表から聞こえた。
雨に降りこめられ、退屈しきっていた客たちは一斉に扉にむかった。その後ろから人の背に隠れておれも外をのぞき見た。
狭い通りの向い側。豆や果物、野菜を商う店主のはげ頭が見えた。どうやら子どもが店頭の品物を盗もうとしたところを店主にみつかったようだ。おやじの手には子どもから取り返した橙色の果物が握られている。
おれは緊張感をいくぶんとくと、あたりを見回した。この一角にこれほどの人がいようとは思わなかった。窓という窓に、ひとが鈴なりになっている。
そして、とうの盗人はといえば、服というよりは何枚ものぼろ布をまとっている。
止める者は誰ひとりとしてなかった。みな眉をひそめるだけだ。
リガ大陸を統一していたコール帝国が崩れて久しいこの時代。平民は、多くの国や領土に分断された地に住んではいるが、それすらも常に隣国やより力のある者に侵略され、振り回されている。
そのたびに税金を徴収され、疲弊するばかりだ。人も土地も。
とてもではないが、家族以外の他人を思いやる心の余裕などあるわけがない。
子どもに連れはいないのか? おれはあたりをみわたし再び子どもへと視線を戻した。おやじは水溜りの中から子どもを引き上げると、なおも容赦のない強さで殴りつけた。小さな体は激しい水しぶきをあげ地面にたたきつけられ、そのひょうしにフードが落ちた。
「尖耳族だ……!」
誰かが叫んだ。
雑に切ったとしか思えない肩のあたりまである赤い髪、気絶しそうになってはいるが、かろうじて開かれている黄金色の瞳。そして先端が鋭く尖った耳。
見物人たちは、みな薄気味悪そうに口々に魔よけの呪文をとなえると乱暴に扉や窓を閉ざしてしまった。それでも、おれはその場から目を離せず、細く開けた扉から尖耳族の子どもを凝視した。
おやじは少しも動じなかった。少しだけ顔を歪めただけだった。やがて気を失いかけている子どもの襟首をつかみ歩きだした。
「待て」
無意識のうちにおれは扉を開け、声を張り上げた。肩を怒らせ、血走った目でおやじが振り返った。雨に濡れることにもかまわずに、おれはおやじに駆け寄った。
「なんだ?」
「覇王に差し出すのか」
おやじは肩をすくめた。
「当然だ。ここで死なれたら、ただのごみだが兵営まで届けりゃ金になる」
「おれによこせ」
「礼金をかすめとられちゃかなわねぇ」
がんとして譲ろうとしない。不本意ながらおれはマントの下から剣を取り出すと柄に刻まれた紋章を見せた。
目に紅玉が嵌めこまれた竜を認めたとたんに、おやじは態度を変えた。
「覇王の……。それはたしか騎士」
おれは無言でうなずき、砂金の入った革袋をおやじにおしつけた。
「礼金を先払いする。そいつをよこせ」
二つ返事でおやじは了解した。統一貨幣は存在せず、金や宝石がものをいうのだ。子どもを肩に担ぎながら、おれはおやじにささやいた。
「このことは他言するな。ほかの尖耳族がよけいに警戒して狩りにくくなる」
それに、とおれはひと呼吸おいて”忠告”した。
「もしもおまえが尖耳族を傷つけたと、やつらに知れてみろ。どんな呪いをかけられるか……」
その段になっておやじの顔から血の気がひいた。ことの重大さに気がついたのだろう、真剣な目つきでなんどもうなずく。
そして、おれは子どもを担いだまま街道をたどり始めた。激しい雨はいっこうにやまず、誰ともすれちがうことがなかった。やがて足は自然と街道からそれ、森の奥へと向かう。
なぜこいつを引き取ったのか。答えは簡単だ。
尖耳族はすべて抹殺されなければならないからだ。
覇王のもとでそう教育される以前から、おれはそれを実行してきたのだから。
「塵にしてやる」
投げ降ろした子どもをみおろし、おれは剣に手をかけた。
焦点の定まらない目で、空をみつめたままの無防備な姿。おれは何のためらいも感じないまま剣を突きたてようとした。
「無駄なことはやめろ。それで塵になぞなるものか」
突然、老人の声が響いた。とっさにあたりをみまわしたが、人影は無い。
「われらを塵にできるのは、燿銀剣だけだ」
眼と耳を疑った。声の主は子どもだったのだ。あまりのことに度肝をぬかれ、一瞬おれはたじろいだ。奴は半身を起こしながら、さらに話した。
「手荒なことはするものではないぞ。我らは誇り高き尖耳族だ」
これはなにかの術に違いない。子どもがこんなしわがれた声で話すわけがない。そう結論がついたのと剣を振りおろしたのは同時だった。
「無駄だというのに」
わずかに奴の瞳が光ったように見えた。そのとたんに剣ははじけ、衝撃で体ごと跳ね飛ばされた。奴の頭をかちわると思われた刹那に。
「ば、ばけものめ!」
しそんじたことへの呪咀の言葉が口からもれた。ふん、と鼻さきで奴は笑った。ゆっくりと起き上がると切りかぶに胡座をかき、おれをみすえた。
「取引をせぬか、若いの」
雨で頬にはりついた髪を払いながら悠然と構えた。
気味が悪い……。背中を悪寒が走る。こいつには悪霊でもとり憑いているのではないか。
こけた頬におち窪んだまなこ。つい一時まえに殴られた傷は青黒く腫れあがり、痛々しいほどだ。しかし、態度はやたら毅然としている。それがおれには無気味なものに思える。尖耳族という特別な存在をいやおうなしに妖しく見せる。
「逃亡中であろう」
不意を突かれておれは息を飲んだ。
「ちがう」
奴は首を横ふった。
「では聞くが、赤の竜騎士ともあろうものがなぜ馬も使わずこんな所にいるのだ。しかも、一人きりで。覇王の……」
覇王と口にしてから子どもは皮肉な顔で笑ったが、そのまま続けた。
「兵は必ず複数で行動するはずだ、ちがうか」
覇王の名が大陸全土に知れ渡っているにしても、細かい階級や軍規は知るものが少ない。……すべてを見透かされているようだ。おれは再び剣を手にした。
「取引をせぬか」
もう一度同じことを言う。しかも不適な笑みを浮かべて。
「悪い話ではないぞ」
「聞く耳はもたない」
行動を起こそうとしたおれは、愕然とした。いつのまにか体には草木の蔓が巻きつき、自由がきかなくなっていた。
「逃亡先を世話しよう。おそらく覇王すらも手出しできない王国を」
「なにを……。そんな場所がこの地上にあるものか。おれは九年も王のもとで遠征をくりかえしてきたんだ。知らぬ国などない」
奴のほうが一枚うわてだ。妖しい罠にまんまとはまった自分がふがいなく、唇をかんだ。
「では、岩谷の国を知っておるか。ビルカの峰のむこうに広がる砂漠のかなたにある」
こいつの知識を疑う。ビルカ山脈のさきの砂漠は人の住めるところではない。なんども送り出した偵察はついに誰ひとりとして帰らなかった。
奴はやけに自信をもってそういったものの、おれの不信に満ちた視線にきがついたのか、首のあたりをまさぐり、革紐にとおした珠を取り出した。
暗がりのなかでもほの白く光ってみえる宝珠は、尖耳族の瞳とよく似ていた。
「これを産する王国だ。あらゆる宝石がとれる美しいところ。まわりから一切の干渉をうけずに独立している。宝石を売りにくる商人のことを知っておるか。あまり多くを語らない彼らを」
これにはうなずくしかない。この大陸では珍しいほど色の薄い奴らだ。髪も目も肌も……。
「みちのりを教えてやろう。ビルカを通って行く安全な経路を」
「おまえの条件はなんだ。うますぎる話は逆にやばいかもしれない」
ひとつうなずくと、眉間のしわをさらにふかくして話し始めた。
「この娘との同行を頼みたい。目的地はビルカの峰だ」
「おまえを?」
「ちがう、わしではない。娘だ」
なんのことかわからず、おれはあたりのようすをうかがった。
「ほかにも仲間がいるのか」
「今のところは、一人だ。わしはこれの中にある記憶にしかすぎない。事情は追い追い説明しよう。とにかくもう時間がない。約束の日までにビルカへ行かなくてはならないのだが、この体ではな」
よくわからないが、一考の価値はある。逃げなくてはならない。覇王に殺されて当然のことをしてきたのだから。……彼女のさいごの願いだったのだから。
しかし、大きな荷物をしょいこむことにはなる。
「こいつを連れていれば便利だぞ。すばらしい能力をもっているのだから」
「腕っぷしは強くないようだな」
皮肉のひとつも言いたくなる。
「それは許せ。この体だ。だいいち尖耳族は元来闘争心が強くない氏族だ。斎民とちがってな」
さげすむようにそう反論してきた。あきらかに軽蔑しているのだ。おれの出自の氏族を。
挑発的な話し方をする奴だ。感情にまかせれば、こいつと行くのは御免だ。しかし、贅沢は言っていられない。
短いあいだおれは様々なことに思いをめぐらせていたが、やつはその間まじまじとおれの顔をみつめていた。
「ふん。術をかけられているのか。次はセルキヤに出でもらおう」
わざとおれの気分を害するような言葉だけ選んでいるのではないか。このおれが術をかけられているだと?
「いまのおまえにはわからんよ」
低くつぶやくと、奴はいきなり前に倒れふした。それと同時に体の束縛も解かれた。驚いたことに、草木の蔓は感じていたほどではなかったが、まったくのまやかしでもなかった。しばらくおれは毒気を抜かれて、呆然と奴を見ていた。
奴は微動だにせず、おれはこいつが死んだのではないかと思った。しかしその反面、また突然しゃべり出すような気もした。
「おい……」
そっと奴の肩をゆすってみた。かすかなうめき声が唇からもれ、ついでゆっくりと瞳が開かれた。
それは穏やかな表情。ついさっきまでのいかめしい顔が、うそのようだ。が、それはほんの一時だけだった。
肩にかかっていたおれの手を邪険にはねのけ、深い憎悪をこめた瞳でねめつけた。
おれに声をかけるすきもあたえず、じりじりとあとずさる。
どうも様子がおかしい。まるで手負いの野獣を相手にしているような感じがする。さきほどの威厳のかけらもない。とにかくおれは話を切り出した。
「おまえの話にのる。いちかばちかだ」
「……なんのことだ?」
すずやかな声だった。
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