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日が短くなった美術部の部室で、1年生の高橋カズエ19歳は、1人キャンバスに向かい、彼が来るのを待っていた。部長の近藤俊彦は、皆が帰ったこの時間に、コンクールに出品しようと密かに製作している大作に手を入れに来ているのをカズエは知っているのだ。
うふ、近藤先輩。先輩は、照れ屋で自分からは私に話しかけられないから、私が2人になる時間を作ってあげたわ。先輩は、すごく気を使う人なのよね。2年生の京子先輩とつきあっているって噂だけど、本当は私のことが好きだって、分かっているわ。
「君の絵、いい色だね」
その一言で、お互いの気持ち、全てを与え合えた。京子先輩と歩いている時でも、私と近藤先輩は目で合図し合っている。私たち2人は、いつも遠くからお互いを探し合って、瞳を絡ませあっているの。
近藤先輩は、京子先輩を傷つけたくないから、今はこうするしかない。私には分かるわ。恋は初めてじゃないから。
私、先輩の性格には理解があるつもりよ。だから先輩が女子の目を気にしてるってこと、よく分かる。大学で見かけた時も近寄って話しかけたりしないわ。だからこうして部室で2人で会う時間を私から作ってあげたのよ。
本当はね、今日は先輩にプレゼントを持ってきたのよ。真っ赤なバラの花束。先輩、赤いバラを描きたいって、いつか京子先輩に話していたの、私聞いていたのよ。でも、大学では人目につくから、家に持って行った方がいいわね。先輩、桜町のマンションで1人暮らししているでしょ。マンションの入り方も知っているから心配しないで。私、恋は初めてじゃないし。
カードに私の携帯番号を書いたわ。やっと私たち2人で話ができる。誰にも邪魔されずに。そして、2人の世界に行くのよ。近藤先輩、絶対に、絶対に電話してくれるわ。私はいつでもかまわない。夜中でも、朝早くても。私、恋は初めてじゃないもの。近藤先輩が大好きな赤くてきれいなバラ。きっとすぐに電話してくれるわね。すぐにね。うふふ。
◇
美術部の部長、近藤俊彦は冬が近付いた頃から何者かに着けられている恐怖に捕らわれていた。
エレベーターが止まり、自宅のドアを開けるまでの間、何度も振り返ってしまう。俺の気のせいか?
カギを回してドアを開けると「うわぁ」思わず飛び上がり、2,3歩後ずさりしてしまった。玄関には、真っ赤なバラの花束があった。ポーチには明らかに誰かが部屋に上がった空気が残されている。
バラにつけられたカードに女性の文字で「近藤先輩へ、高橋カズエより」。
あいつ!
高橋カズエは、同じ美術部の新入部員だった。お菊人形みたいな真っ黒なおかっぱ頭で、周りの誰とも口を利かない。どんな絵を描くのか、キャンバスを覗いてみると、描かれていたのは服といい、背格好といい、どう見ても俺の顔だった。
「…君の絵、いい色だね」
俺は蒼ざめながらそう言った。それ以外に何を言えばそこから立ち去れるか分からなかったからだ。
高橋の俺へのストーキングはそれから始まった。校舎内で、学食で、そして街に出ても、高橋がどこかにいた。
俺は、高橋が京子に何かするのではないかと、それだけが気がかりだった。俺のせいで京子に付きまとわれたりしたら。
俺は、高橋と会わないように、皆が帰ってから部室で作品を仕上げていた。しかし、いつか高橋もそれに気が付いたので、部長の俺が最近は部室にも行けない。コンクールに出したい絵があるのに。
「近藤、どうしたんだよ。最近、来ないじゃないか」
美術部の同期、野村が声をかけてきた。
「実はさ、ストーカーされているんだよ」
「え、マジで? 相手は誰だか分かってるの?」
俺は周りを見ながら小声で言った。
「高橋だよ。高橋カズエ。今年の新入部員の」
「高橋カズエ? そんな奴いたっけ」
高橋はサークルでも誰とも口を利かないし、正直、絵も巧くないから印象が薄い。
「ほら、いつも隅っこで描いてる、おかっぱでお菊人形みたいな、ちょっと気持ち悪い子」
「お菊人形?」
野村は笑った。「そんな子、うちのサークルにいないよ。高橋カズエなんて、知らないもん」
「そんな、新入生歓迎会にもいたし、合宿にも来たじゃないか」
「いないよ、うちの部活に高橋なんて子。頭おかしくなったんじゃねえの?」
えええ?
俺は自宅に帰り、ゴミ箱からバラの花束を出した。野村の奴、俺が狂ってるみたいに言いやがって。バラのとげが指に刺さって痛い。よれよれになったカードがリボンについていた。ほら、高橋カズエ、存在するじゃないか。携帯番号だって書いてある。電話すれば証明できる。電話しよう。電話しようじゃないか。高橋カズエに。
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