431人が本棚に入れています
本棚に追加
あの始まりから2年が経って、私にも衝撃を感じることはほぼ無くなっていた。色々体に馴染まない事はあるけれど、学生生活は順調に過ごせている。
順調、と言うのは裏を返せば、学業に支障をきたすような刺激的な事も無く、明るく健全な日々を送っている、と言うこと。
友達と過ごす時間が楽しい毎日に安心し、それが物足りなくも思うような。
「野崎さん、こんにちは」
私は、午後の授業が早く終わる金曜日と土曜日の午前、大学近くの整形外科医院で、受付のアルバイトをしている。
「千菜ちゃん、今日も元気だね」
毎週金曜日に診察に訪れる野崎さんは、嬉しそうに診察券を差し出す。
「元気が取り柄なんです」
そう言って受付の手続きをパソコンに向かって済ませてから、診察券をお返しする。
「何よりの取り柄だよ。…ありがとう」
取り柄だけではなく、金曜日のだからかもしれない。1週間が、やっと終わる。
そして。
「こーんにちは」
いつものリズムで、待ち合いに響く声の主に会える日。
「こんにちは、藤岡先生」
「せんせ、お待ちしてましたよ、今日もいい男っぷりですねー」
患者さん達は、口々に挨拶をして、診察室に入って行く彼に声をかけた。私はその患者さん達を邪魔しないように、挨拶の声がおさまったのを見計らって、お疲れ様です、と声をかける。
「お疲れ、千菜ちゃん」
白衣のボタンを留めながら視線をこちらに向けると、いつも通り、優しく名前付きで挨拶をしてくれる。自分だけ特別…と勝手に自惚れるのが、自分への週末のご褒美だった。事実、名前付きの挨拶は私だけ。まぁ、スタッフはたった6人の診療所だけれど。
院長は、優しく明るい成田先生。事務長は院長の義理の弟の片桐さん。看護師は、事務長の奥さんで院長の妹の綾香さんとベテランの小松さん。そして、ヘルパーで元気なシングルマザー北澤さん。
院長が看護学校の先生をする金曜日の午後、藤岡先生は院長の代わりに診察を担当する。ジーンズにTシャツ、その上に腕まくりをした白衣。いつも勤務している総合病院では、手術もこなす伸び盛りのドクターだと、北澤さんが教えてくれた。
およそ、人の体を切り刻むようには見えない優しい雰囲気。私には、目が合うだけでもご褒美になるような存在だった。
先生が診察室の椅子に腰かけると、椅子がやけに小さく見える。それでも窮屈な顔もせず、ニコニコしながら患者さんの話を丁寧に聞き、そつなく診察をこなす。
私はいつも、事務処理にミスがないように注意しながら、先生の仕事ぶりを盗み見ていた。
きっと、向こうの病院でほっとかれるはずがない。
私は週に1度、”憧れの人”を見られるだけで十分、と思っていた。
最初のコメントを投稿しよう!