スコール

3/13
前へ
/142ページ
次へ
 忙しい。とにかく忙しい。  思い返せば、学生の頃も忙しかった。学生と言うのは、中学生や高校生の頃も含めて、野球漬けの学生生活は泥だらけの忙しい毎日だった。しかし、医者になった今はその比ではない。    午前中は、外来の診察をこなし(病院の午前中とは、概ね13時を過ぎる)昼飯にありつければ良い方で、時間がなければウイダー片手に着替えをして、手術(オペ)室に向かう。  手術が終わると病棟に呼ばれて、必要な処置をして書類をやっつける。  泥だらけになることはなくなったけれど、太陽の光を浴びる健全な生活とは無縁になってしまった。人の健康のためにそれを説き、治療をしているなんて、詐欺かと思う時もある。  そんな毎日の中で金曜日の午後は、医者になりたかった頃のことを思い出して、気持ちをリセットできる時間を過ごせた。病院からの派遣医師として伯父の診療所を手伝いに行ける日。  伯父に借りがある自分は、手伝う時間を条件に、モノでは返せないような恩への借りを返している。でもよく考えれば、伯父のためと言うより、伯父が俺のために作ってくれている時間なのかもしれない。  伯父の診療所は、祖父のやっていた街中の整形外科。子供のころから好きだった、少しエタノールの匂いがする家付きの診療所だ。  微かに覚えている祖父は、白衣を着ていつもゆったりと椅子に座り、笑顔で患者さんと話をしていた。その様子が、子どもの目にはとても楽しそうで、居心地の良い空気を感じていたのだと思う。  普通は、子どもが苦手なはずの診察室が好きだった。ひじ掛けのある大きく見える祖父の椅子に、座りたかった。    総合病院と違い、患者さんの生活が身近な診療所の仕事は、ここの椅子に座りたいと思っていた頃の気持ちを思い出せる。    忙しい毎日に流されないように。  自分の心を、見失わないように。  俺に必要な暖かさを、見つけられる時間が持てるように。  ここの空気は、俺の生活に必要なものになっていた。
/142ページ

最初のコメントを投稿しよう!

431人が本棚に入れています
本棚に追加