直交する時間軸

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直交する時間軸

彼は博士を強く睨みつけた。博士は時の魔 女と呼ばれる魔法使いの女性だ。彼の恋人 は博士の弟子で、同じく魔法使いだった。 時間を自由に移動することができる魔法陣 を開発することが彼女たちの研究だった。 超絶した魔法だ。魔女2人は未だ誰もなし えていない偉業に向けて、共に研究してい たが、その実験中、彼女は突然消え去った 。博士は申し訳なさそうな表情を浮かべ、 その時のことを彼に説明した。その話によ れば、昨日、この研究小屋の一室にて2人 は新型魔法陣のテストをしていた。今回、 彼の恋人が新たに考案した理論は、時の魔 女たる博士の頭脳をもってしてもその全容 が把握できないほど画期的な案だったらし い。博士は彼女の考えた理論も彼に説明し たが、彼に分かるわけがない。この時間が 横方向に流れていると仮定した時、実は縦 軸の方向にも時間は流れているらしく、そ の縦の時間の世界を経由し、こちらの横に 過ぎる時間の抜け道とできれば、未来も過 去も自由に移動できるはず。という彼には ややこしすぎる仮説に基づき、魔女たちは 未だかつてない魔法陣を作った。そして未 来へ時計を送る実験を開始した。元々、人 ではなく、物を未来へ送る実験を彼女たち はしていたのだ。初めて作る試作の魔法陣 など、どのような不具合や危険があるか全 く分からない。彼女たちは緊張感を持って 、慎重にその実験を行っていたが、彼女は 縦の時間へと消え去り、時計の方は魔法陣 の中央にとり残された。本来の実験内容は 時計を縦の世界へ送って、またこちらの時 間世界へ戻し、時計の進みを見比べ、時間 軸のズレを調べるだけだった。博士は彼女 への称賛を織り交ぜつつ、事の経緯と彼女 の考えた新理論の素晴らしさを語ったが、 移動した先が縦か横か、どのように時間移 動が可能になるかなど彼には関係のない話 だった。彼はただ、恋人の安否が知りたか った。今どこにいるのか?無事なのか?ま た会えるのか?何よりそれを知りたかった 。彼は必死の形相で博士にそれを訊いた。 しかし、博士はその質問には答えず顔をし かめた。博士の表情を見た彼も状況を理解 し始めた。要は、実験に立ち会った博士も 、その時一体何が起こったのか、縦時間へ 人間が移動するとどうなるのかを理解して はいないのだ。博士は顔をしかめたまま、 常人に理解できる話ではないわ、師匠の私 にも理解しきれない、彼女に比べれば私も 1人の凡才にすぎないの、とうつむいた。 つっと彼の頬を涙が伝い、それを見た博士 の目も潤み始める。未来へ送るはずだった 時計の秒針の音が、研究室の片隅で横の時 間を刻んでいた。彼は涙目で自分もその縦 軸の世界へ、つまり、彼女の所へ送ってほ しいと頼んだ。博士も目に涙をためて、一 か八かの賭けを許すわけにはいかない、確 認すべきこともまだあるわ、危険よ、と常 識論でその頼みを断った。当然、原因不明 ではある。しかし、現状では別に彼女が亡 き者になったわけでもなく、ただ単純に居 なくなっただけだ。死体があるわけでもな い。博士は冷静になるよう、彼を説得した 。むしろ自分を諭すかのような涙を流しつ つの説得だった。そんな博士の様子に彼も また、少し落ち着きを取り戻した。まだあ りとあらゆる可能性があった。とりあえず 、実験の経緯を再調査する必要があるし、 彼女の研究日誌も残されている。それに彼 女は天才ゆえの天然でもあった。恋人の彼 には、それも彼女の魅力の1つだったが、 とにかく忘れ物が多いし、突然、立ち止ま ったかと思うと、そのまま何かを考え始め て、思考の世界から戻ってこなくなるなど は日常茶飯事だった。発想は天才的だが、 何かと抜けたところも多かった。博士も彼 もその認識は一緒だ。もし、彼女の性格に 起因する形で今回のことが起きたのなら、 きっと、子供でもやらないミスを彼女はし てしまったのだろう、と2人は泣き顔で笑 いあった。それなら彼にも想像できるよう な話だった。例えば、魔法陣の設定に間違 いがあったら?その実験では時計を数秒後 の未来へ送るはずだったが、それを数日後 と設定していたら?魔法陣の効果範囲まで 同時に間違えていたとしたら?それらは総 じて博士にとっての都合のいい希望的観測 だったが、それなら実験も基本的に成功だ ったと言えるし、彼女の生存も十分ありえ た。彼もその希望的観測に妙に納得できた 。彼の恋人はつまり、そんな女性だった。 実験や魔法について彼は無知だが、彼の経 験上、例えば、こちらの心配をよそに彼女 は無事で、また突然に帰って来て、言葉を 失った彼や博士に満面の笑みで、実験は失 敗ですね、などと平然と言ってくる様子ま で想像できた。そして、博士は気を取り直 すかように大きく息を吐き、時計の隣に重 ねられた彼女の研究日誌を指さしてみせた 。少し時間がかかるかもしれないけど必ず 彼女は呼び戻すわ、と博士は宣言した。彼 女は既に死んでいる可能性もあった。2人 ともそんなことは分かっていた。それでも 博士は力強く言い切った。すると、彼は博 士に、自分も手伝いたい、と申し出た。彼 は真剣だった。その表情を前にして博士も 笑顔で申し出を受け入れるしかなかった。 いきなり問題の全てが解決するような事は ありえないだろうと彼も博士も内心では思 っていたが、まだ2人はどこか楽観的だっ たのだ。彼らはふと研究室の窓の外を見た 。陽はとっくに落ちていた。翌日、2人は 彼女を呼び戻す研究を始めた。もちろん彼 女が無事である前提の調査だったが、2人 は根拠のない楽観論を封印した。具体的に 研究するなら具体的な知識と事実でそれを 究明する必要がある。魔法に関しては初心 者である彼がまずやるべきは、ずばり勉強 だった。博士を手伝うにも知識不足だった 。そもそも彼は簡単な魔法すら使えない。 その一方、天才魔法使いであり、時間研究 の第一人者でもある博士も苦戦していた。 原因を調べる。やるのはそれだけだが、原 因となりうる要素は無数にあった。それら を1つ1つ分析するのだが、何をどれだけ 調べても原因は掴めず、疲れた表情を浮か べる日々が続いた。魔力のバランスが崩れ るような魔法陣の設計ミスもない。触媒が 必要量以上に使用された形跡もない。その 要因となりうる多くの可能性のことごとく が調査により否定された。さらに、知識が あるはずの博士も、彼女の理論を理解しき ってはいない問題もある。彼女は天才だっ た、と博士は改めて消えた弟子を称賛した が、その博士ですら初学者の彼にとっては 、まごうこと無き大天才だった。そして、 そんな日々が2か月ほど続くと、彼は今後 のことを考え始めた。この調査はもはや何 日かかるか分からない。何日どころか、彼 は何十年単位になることも覚悟した。博士 も同じ認識だった。このままでは駄目だろ うし、結局、彼女のレベルに達さなければ 疲弊するだけで何も得られない。つまりそ れは、失敗した実験の調査ではなく、改め て、彼女の研究と本格的に向き合うしかな いという結論だった。ある日2人は決断し た。彼は正式に博士の弟子にしてもらった 。博士も今までの知識や常識を捨て去り、 また初心に戻って魔法と時間の研究を始め た。博士はまず大学に戻り教壇に立った。 明日どうなるか、とまでは言わないが、毎 日、体のどこかに不調を感じるくらいの歳 ではあった。そして、自分以上の天才を追 いかけていた。一生かけても彼女に届かな いかもしれない。知識も設備も資金も要る 。時の魔女の名声をフルに使って、時間の 彼方の研究をするための環境を整えた。彼 女に追いついて、彼女を取り戻すためには は独力では無理と判断した。同時に彼女の 愛した男の指導も行いつつ、博士は研究を することにした。その一方で、彼は勉強す るしかなかった。ひたすら学び訓練する。 彼はがむしゃらに頑張るしかなかった。そ の目標は果てしないが、博士の研究をただ 待つ状態にも彼は耐えられなかった。時折 つい弱気になることもあったが、出来れば 自分の手で彼女を取り戻したいし、早く自 宅でまた一緒に暮らしたかった。そんな彼 への助言として、焦らないの、今日はもう 帰って休みなさい、と博士が呆れて指示す ることも多々あった。しかし、彼は止まる ことなく学び続けた。彼が魔法学の中でも とくに、魔法陣の設計や新魔法開発の分野 に自分の適性を見出すのに、3年ほどを要 した。生来のものである魔法の行使は諦め たが、理論上の魔法構築は苦ではなかった 。博士はそれをむしろ喜んだ。そもそも一 山いくらの魔法使いは不要だった。新しい 手段や理論やアイデアの方が、目標を一直 線に捉える可能性がある。行使は魔法使い に任せればいいのだ。博士は何度か相談に 乗るという名目で彼女の惚気話を聞いてお り、彼が努力家で真面目だと知っていたが 、その成長速度には驚いた。元の仕事は塩 田の作業員にすぎないし、彼女のように極 端な天才でもなかったが、彼のこの短期間 での成長には、博士も胸のつかえがひとつ 降りたような思いだった。年齢的にはかな り遅いが、彼は博士の推薦で大学に入学し 、魔法学部に入った。魔法が一切使えない 彼の入学は前代未聞で、少しばかり時の魔 女の名声と口利きが必要ではあったが、彼 はそれに甘んじた。彼はより貪欲に知識や アイデアを欲した。小麦を毎日眺めても、 パンの製法には辿り着けない。彼の目的は |つでも多くを知ることだ。別に、スマー トな方法に拘る必要はない。もちろん、彼 に冷たい視線を送る者もいたが、自宅にも 帰らず、勉強するために博士の研究室に入 り浸っていた彼の存在と、彼の研究への執 着は大学で既に有名だった。魔法が使えな いことも今更で、さらに、机上だけで考え た彼の魔法の性能の良さに唸る教授もいた 。要は、彼が学内にいるのはもう日常で、 その実力も知られていた。魔法を使えない ことを理由に彼の入学に反対したのは、主 に一部の権威主義者だけだった。そして、 彼が入学して数か月も経つ頃には、誰もそ のことを気にしなくなっていた。彼の学生 姿はすぐ大学に馴染んだし、研究者として は本格的に頭角を現し始めた。まだ粗削り な所もあったが、彼の魔法構築手法は学外 からも注目された。ロバスト性の高い、し っかりとした魔法を構築できる新手法だっ た。その彼の活躍には博士も鼻高々だった 。また、何より博士が喜んだのは、入学の 翌年くらいから、彼の表情や振舞いが日に 日に明るくなったことだった。彼女が消え 、彼は常に必死な表情だったが、この頃の 彼はその大学生活を楽しみ始めていた。彼 女を呼び戻す研究はしていたが、既に博士 は半ば諦め気味でもあった。追及するほど 混迷を極めるような研究だった。彼の心を 乱さぬよう、彼に直接話したことはない。 しかし将来、彼もその研究を諦めざるをえ ないという結論に至る可能性も考えた。彼 がその時、罪悪感に負けず、前を向いてい られることを博士は望んだ。ちょうど彼と 博士の年齢差は母子くらいで、独り身の博 士にとってはもはや息子だった。彼が幸せ になってくれるのが最優先で、彼について 訊ねる女学生も何人かいたため、彼が新し い恋人を作ることも悪くはないと思ってい た。あの日からもう数年が経っているのだ 。彼女には悪いが、彼にはその研究以外の 何かが必要だと博士は思っていた。ところ が、最近の彼の自然な表情は、少し前の躍 起になっていた頃とは別人のようで、その ことに博士は安堵した。彼はもう自信を持 っていたし、研究も楽しんでいたし、仲間 たちと夜通し飲み明かすこともあった。そ の学生らしい生活を彼は楽しんでいた。し かし、彼が彼女を取り戻す研究を諦めるこ とはなかった。その目標は見失わなかった 。別の恋人を作ることもしなかった。彼は 博士の気遣いと諦めに気付いていたが、博 士の諦めを責めるつもりもなかった。それ はもう彼にも分かる。研究日誌という形の 答えを既に彼女は残していたが、それは答 えなどではなく、むしろ新たな謎の塊だっ た。彼女にとっては自然なことなのだろう 。しかし、彼女以外の人間にとっては一体 何がどうなってそう繋がるのかの論理展開 も全くの謎で、それは結論の魔法陣の方を 起点にした分析でも同じだった。まず、そ こに描かれていた魔法陣と、彼女を消し去 った魔法陣にも差異がある。何かを修正し てあの実験を行ったということは間違いな いが、その理由や詳細は日誌に記されてい ない。問題の魔法陣は当時のまま残されて いたが、あれ以来、一切起動させていない 。当然、危険だからだ。ここ数年で分かっ たことは、何も分からないということだけ だった。何年もそんな状態が続くのだから 、諦めたくなる気持ちも分かる。しかし、 時を追うごとに彼はそれに熱中した。昔の 間柄は恋人だった。それは今も変わらない のだが、今や研究者としても、彼は彼女と 交われた。彼女の残した日誌は、彼女の視 点そのものだった。恋人として彼女のこと を何でも知ったつもりでいたが、研究での 垣根は高かった。恋人で研究者。そんな人 間を改めて知っていく研究だった。何の発 見もできてはいないが、彼女の深淵に触れ ている感覚も心地よかった。その彼女の残 した日誌を彼は何度も読んだ。もはや、読 まずとも内容を全て思い出せた。内容はさ っぱり理解できないまま、何度も読み続け た。日誌に記されたのは研究に関する内容 だけだが、その研究はこの世界への問いか けでもあった。――この世界も時間も1つ だけじゃない。ここが横なら、縦もあるだ ろうし、さらに上の次元だって。それはも う神の世界ね。もしその世界から私を見る と、私の運命なんてもう決まってるのかも 。神は物語を読むように私を眺めている。 この世界を綴る作家のような存在すら居る のかもね。嗚呼、あなたは今、私を、この 世界を読んでいるの?あなたと私が接する 界面は存在するの?あなたはその外の世界 でなぜ私のことを読むの?どうして欲しい の?あなたは私に何を求めるの?――その 彼女の言葉は日誌の端に小さな文字で、彼 女らしい丸文字で書いてある。見た目だけ は可愛いものだが中身は奇書だ。研究室で 独りの時に彼は日誌を開き、その思想に浸 り泣いた。彼女の理論が正しいなら、その 身体や魂が彼のすぐ近くにあってもいいの だ。ただ見えないだけで。もちろん無事だ ったらの話でもあったが、何となく彼は当 たり前のように無事だと信じていた。自分 が辿り着けていないだけだ。希望的観測か 、あるいは自己憐憫でもあったが、それが 知識欲や研究欲になった。彼は日々悔しが り、悲しがり、でも楽しみ、遊び、また考 えるような大学生活を送り、無事、卒業す ることができた。そして卒業式の翌日、彼 はある許可を博士に求めた。半年程前から ずっと彼はそればかりを考えていた。博士 も薄々と気付いてはいた。全ての始まりと なったあの魔法陣を、もう一度起動させた い。それを彼は求めた。博士は反対した。 彼も危険性は分かっている。まず彼は魔法 を使えない。起動させるのは博士だ。もし 想定外のこととなれば、誰が危険なのか言 うまでもない。彼はそれを心苦しく思うの と同時に1つの自信も持っていた。幾度も 涙を流しつつあの日誌を読むうちに、彼女 が作った魔法陣に修正すべき部分が1か所 ある事に気付いた。それは魔力バランスが ふらつく原因になりえた。尤も、未だにそ れ以外の理論や設計について全く解明され ていないことも多い。博士は考えた。まず 止めても彼はやるだろう。彼の発見には今 までで一番の可能性も感じた。つまり、や らない後悔もありえた。時の魔女の矜持も なくはない。博士も覚悟を決めた。2人に かつての感情が蘇った。あの日から色々あ ったが、今も2人の時間はあの日に囚われ たままだ。博士は大学に休暇届を提出した 。そして数日後、あの日から空き家にして いた博士の研究小屋に2人は戻った。はや る気持ちを抑えて、まず、2人が始めたの は掃除だった。中の研究室は当時のままで ずっと残されていたが、埃はどうしようも ない。2人はゆっくりと時間をかけて、そ の数年分の埃を払った。その時間は穏やか に過ぎた。実験が失敗したら、もう会えな い可能性もある。2人にとってはその何気 ない時間も貴重だった。そしてその夜。つ いに2人はその禁断の実験に取りかかった 。未来へ時計を送る実験だ。彼女を取り戻 したいとはいえ、まずは魔法陣が機能する かどうかを確かめなくてはいけない。しか し、それすらも危険だと知っている2人は 、緊張感を持って、慎重に準備を終えた。 彼はその実験の開始に恐怖したが、時の魔 女は堂々と、準備の整った魔法陣の前に杖 の先端を掲げた。時計が時を刻んだ。彼は 頬がチリつくのを感じた。そして、研究室 を閃光が包みんだ。閉じた瞼の向こうから 伝わってくる光が静まるのを待ち、彼はゆ っくりと目を開いた。光景に変化はなかっ た。博士も無事だ。時計もある。彼の目が 涙で滲み始めた。博士も呆然と立っていた が、やがて作り笑顔で振り返った。実験は 、失敗ですね。彼は博士に静かに言った。 研究室は静寂に包まれた。何が起きたのか 究明しなくてはいけないが、2人はその一 室に立ち尽くした。心も体も動かなかった のだ。空しさも、悔しさも、安堵もある。 床に描かれた魔法陣は何も答えない。彼女 に近づけたつもりが振り出しだ。それでも 落ち着けているのは博士が無事だから。立 ち続ける力が出ず、彼は膝をついた。そし て、研究室の窓の外で朝日が昇った。身に 染みるような陽の光が射し込む。時間の進 み方も見失っていた。彼女に会いたい。彼 を縛る時間がまた動き出す。魔法陣もまた 作ればいい。次こそ。しかし、彼の頬を伝 った涙が、研究室の床に落ちて染みを作っ たその瞬間に、彼らはいきなり再会した。
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