汚泥のそこで見上げる光

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 パルセスが生まれたのは、今から3年と25日、および8時間9分11秒前のことだった。  黒い短髪に鍛えられた印象を抱く筋肉、褐色の肌を割り振られ、清潔感のある精悍な顔立ちに仕立てられた。性別は男性が割り振られたが、もちろん、生殖は不可能だ。  ただし将来的に何らかの事情で職業変更があった場合に備えて、性行為のための装置も取り付けられた。  それから34日が過ぎるころには仕事が割り振られ、パルセスは人間のために食事を作る『シェフ』に就任した。すぐさま仕事に順応し、パルセスは立派なシェフとして活動できるようになった。 「いかがでしょうか」 「とても便利よ、こんな風に食べられる食事が欲しかったの」  首元から髪を飾り立てるように伸びたチューブの先に、小さなビーズのような赤い粒を転がして、女性は嬉しそうにメッセージを送ってくる。パルセスが微笑むと、彼女もまた嬉しそうに笑ってくれた。  人とほぼ同等の思考を有すAIが、人以上に活動できるボディを得て、アンドロイドが実現されてから半世紀が過ぎた。アンドロイドの数は人間の4倍という数値に到達している。  街を歩くうちのほとんどはアンドロイドで、高度な生命維持装置を数多く開発した人類は、子を新しく生むのではなく、多くの知見と経験を積んだ1つの命が十分に生きながらえることを優先するようになった。  パルセスはその途中に作り出されたアンドロイドで、特に栄養学と人体の構造に特化した性能を誇っていた。 「口からものを食べるなんて、昔の人はどうしてそんな不都合なことをしていたのかしらね」  そういう女性のあごは、ものを食べていたころの人類に比べると極端に細い。話すことにしか使われなくなった口は、アクセサリーとしての意味を持ち始めた。ほとんどの人は喉から下を人造の栄養吸収装置へ切り替え、口での食事をやめた。  効率よく済まされる食事には、もちろん、かつて口でものを食べていたころと全く同じ反応を体がするように働きかけるシステムが備わっている。微量なホルモンも、些細な栄養も、全てパルセスのような『シェフ』が用意してくれるため、人間はほとんどの時間を創造や議論、あるいは自らのために使えるようになった。 「わたくしには、分かりかねます」  パルセスは微笑みながら伝える。  今日はこれでもう『シェフ』の仕事は終了となる。1秒たりとも余剰を残さず、パルセスは自宅へ向けて、駅へと向かう大型移動装置へ足を踏み入れた。  広々とした空間には、パルセス以外に人間が1人いるだけのようだ。  その人間の動き、呼吸、かすかに残る痕跡からして体重は45kg程度だ。毛髪の皮脂が付着した壁の高さから、身長は160cm。  身長から見た適性体重から10kg以上も離れており、非常に痩せていることが分かる。  単純に言って、不健康極まりない体なのではないかと、パルセスは思考した。移動装置から下りると、パルセスは真っ先にその人間を探して、驚いた。   「……はむ」  かすかな吐息と咀嚼音。  そう、咀嚼。彼は、口から軽快なくっちゃくっちゃという音をたてて食事をしていた。 「うーん、やっぱりハンバーガーならこの人造パティだよなぁ。ピクルスは三枚、オニオン別のせ、肉だけ100%。ケチャップドバかけ、くぅーっ。下手な薬よりよっぽど飛べると思うんだけどなぁーもー」  丸っこい鼻についた、真っ赤なケチャップをぺろりと指先で取り上げて、彼はそんなことを早口でまくし立てる。あばら骨が浮いていそうな薄い体には、簡素なTシャツと時季外れのコートを纏い、ジーンズがぶかぶかになるような尖った足をしていた。  髪は金色、肌色は黄色、目はグリーンとずいぶんと混血が進んだ顔かたちをしている。  パルセスは迷わず話しかけた。 「失礼」 「んお? おー、こんにちは」 「こんにちは。恐れ入りますが、お名前は?」 「あー『警備』のやつ? ごめんよ、床の掃除増やしちゃったな。ミヒロって言うんだ」 「ミヒロ様。ええと。正確には、わたくしはパルセス、『シェフ』の役目を頂いております」  ぱちくりと瞬いて、ミヒロと名乗った男は頷いた。 「おお『シェフ』! すごい、初めて会ったよ」 「ミヒロ様は、口からものを食べていたようですが、栄養吸収装置はつけていらっしゃらないのですか?」 「あー、あれね。いや、無理なんだ、俺『期限付き』だからさ」  期限付き、と呼ばれる人間は、延命措置や栄養吸収装置など、一切の機械化を禁じられた人間だ。一定数存在する彼らは、誕生と死亡のサイクルが早い代わり、種の多様性を維持する必要な犠牲とされてきた。  パルセスの目が、驚きを示す動きをする。 「なんと……わたくしも、初めてお目にかかりました」 「そりゃいいや、お祝いだ」  しかしパルセスは基本、彼らと接することはない。  それが『シェフ』の役目だったからだ。 「ところで先ほど召し上がっていたのは?」 「ハンバーガーさ。あれ、シェフってそういう料理は作らないのかい」 「はい。わたくしを始め、シェフは基本的に栄養吸収装置を前提としたメニューを承る存在ですので」 「なるほどなぁ……。あ、でも、味覚知覚と栄養消費機能はついているだろ? 食べてみるか?」  ミヒロが差し出したハンバーガーを、反射的にパルセスは受け取った。そしてぺろりと舐めて、 「……最下級の粗悪人造肉ですね。パティの小麦も、培養品ではなく不法栽培の品でしょうか? ケチャップは唯一市販品ですが、やたら油を多くしていませんか?」  困惑した様子で言うパルセスに、ミヒロは笑う。 「いいのさ。それが『美味しい』んだから」 「なるほど……ミヒロ様」 「ん?」 「こちらの食品は『シェフ』アンドロイド料理担当法第45条、健康的にして有意義な食に反します。優先指令の変更を検知、あなたの専属に配属を切り替えます」  ミヒロが驚く前で、チカチカとパルセスの目が輝いた。 「登録完了。ミヒロ様、よろしくお願いいたします」 「えっ、マジで」 「申し訳ありませんが『シェフ』としての大切な仕事ですので……」 「う、うーん……『期限付き』が断ったら外聞悪いし、まあいいよ。お前の食事ってのにも、興味があるからさ」  そうしてミヒロは、パルセスに手を差し出す。爪には縦に筋が入り、ぱりぱりに乾燥した肌をしている。 「よろしくな」  握ると温かいが、適切な筋力に程遠く、皮膚も薄い。パルセスは『至急健康診断を』と病院の手配をするのであった。
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