僕らを照らす温かく柔らかな光

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僕らを照らす温かく柔らかな光

 帰り道にあるマンションの一室は、カーテンが開いていて夕飯時のようだった。  父親、母親、小学生の息子らしき3人が食卓を囲み食事をしている様子が見える。  電球色の蛍光灯は食卓を夕日のようなオレンジ色で照らしていた。  幸せそうだなぁ……。  父子家庭で育った僕は家庭の暖かさを知らない。  母は早くに他界し、父は僕を大学に行かせるため必死で働いて学費を稼いでくれた。その代わり、家にいることはほとんどなかった。  僕もそれに応えるよう勉強し、私立の一流大学に入学した。  一人暮らしを始めてからは、さらに父とは疎遠になってしまった。  たまに実家に帰ってもお互い何を話したら良いのかわからないので、実家に帰るのは盆と正月の年二回だけだ。  今日だって、高校の同窓会で地元の栃木に帰ったけれど、実家には寄らず、戸塚のアパートへ戻ってきた。 「ただいま」 「おかえり」  自宅マンションのドアを開けると、半年前から同棲している彼女がパタパタと玄関まで迎えに来てくれる。  今日は父に会わなかったけれど、正月には彼女を連れて実家に帰ろうか。  そろそろ彼女を紹介しても良いのかもしれない。 「同窓会はどうだった?」 「懐かしい顔ぶれで、久しぶりに笑ったよ」  久しぶりに笑ったのは本当だ。けれども楽しかったわけじゃない。  通っていた高校は県内トップの進学校。クラスメイトは医者や弁護士になったり、一流企業に勤めたり、起業したりと、成功者ばかりで身に纏ったハイブランドのスーツや高級腕時計は光り輝いていた。  僕はジーパンにネルシャツとくたびれたスニーカーという姿だし、一流大学を卒業したというのに仕事はコーヒーチェーンのアルバイトという身分だ。  そんな僕には劣等感しか感じず、酒を飲んでニヤニヤしながらその場をやり過ごすしかなかったのだ。 「おこた届いたよ」  一昨日、ネットで注文した炬燵はリビングの中央に鎮座している。  すでに炬燵の上にはみかんが乗っていて、ずっとそこにあったような錯覚さえ覚える。  この部屋も帰り道のマンションのように、外から見たら幸せなのだろうか。  この幸せそうな部屋の中心にいる僕は「しあわせ」と言葉にする事が出来ないでいる。  僕は鬱を患っている。  何をするにも億劫に感じて、楽しいとか嬉しいとか、プラスの感情を滅多に感じる事がない。生きていることに辛さを感じていて、酷い時には線路に飛び込みかけたこともある。  きっかけは前職だ。  大学卒業後、スマホアプリを開発している小さな企業に就職した。  入社のきっかけは大学の先輩だ。  大学生の頃からプログラミング始め、自分でアプリも開発していたので、大学の先輩に声をかけられた。  日本一のアプリを開発し、本気で世界を変えてやろうと思っていた。  しかし、納期が迫ると泊まりこみが普通で、先輩からの怒号が飛び社内は最悪の空気になる。  そして、自分のプログラミング能力が会社では素人レベルである事を痛感し、自信も気力も体力も次第に失われていった。  もうダメだと思った僕は、仕事の合間をみて精神科に受診した。  予想通り、うつと診断されて薬が処方された。  薬は受診するたびに増えていった。  二つ目のプロジェクト終了まではなんとか持ちこたえたが、同時にドクターストップがかかった。  僕は最後の力を振り絞って、辞表を提出した。  しばらく家に引きこもっていたが、精神科の通院だけはしようと思った。  クリニックは会社の最寄駅だったため、通院には気力を要したが、昼間の電車は空いていて、働かなくて良いと思うだけで、少しだけ気分は違った。  それでも診察が終わる頃には酷く疲れていて、薬局に寄って薬をもらう体力は無かった。  翌日、処方箋を持って自宅の近くの薬局で薬をもらいにいった。  僕と彼女はそこで出会った。  彼女はその薬局の薬剤師で僕に薬を出した。  二言三言質問をしてくるので、それに適当に答える。  そのまま薬をもらって帰ろうとすると彼女は、 「あなたを救いたい」  と、言った。  この人はいったい何を言っているのだろう。  目を丸くする僕を真剣な眼差しで見つめてきた彼女からは嘘がないように思えた。  次の受診の時も、その次の時も真摯に対応してくれる彼女をみて、次第に心が惹かれていった。  それから、僕と彼女は恋に落ち、お付き合いを始めた。  それがだいたい2年前。そして、半年前から同棲をしている。  彼女と一緒にいるようになってから鬱が少しずつ良くなっていった。  特別な何かをしたわけじゃない。ただ僕のそばにいてくれた。  それだけで薬は減り始め、先週の受診ではついに薬がゼロになった。  本当に僕は彼女に救われたのだ。 「寒かったから今日はお鍋です」  彼女が休みの日には必ず夕食を作って待っていてくれる。  コートを脱いでクローゼットにしまう間、彼女は鍋を炬燵に運ぶ。 「お豆腐は安かったけど、長葱が高くて。一本だけにしちゃった」  鍋を覗き込むと乳白色の豆乳出汁に豆腐や白菜、肉団子が浸かっている。確かに長葱は少ないが美味しそうだ。  冷えた体を温めるべく炬燵に入ると、彼女がお茶碗と箸、れんげを目の前に並べてくれる。  あたりを見回すと散らかしていた本が綺麗に片付けてあり、掃除機もかけてくれたようだ。  休みだったとはいえ、ここまで尽くしてくれるのはありがたさを通り越して申し訳なさも感じてしまう。  彼女がここまでしてくれるのは訳がある。  お兄さんが鬱で自殺したそうだ。  お兄さんの写真を一度だけ見た事がある。僕と顔が似ているような気がしたけれど、彼女曰く、顔よりも雰囲気が近いそうだ。  彼女が僕を闇から救おうとしたのは、僕にお兄さんを重ね合わせているからかもしれない。  炬燵に手足を入れると赤い光がじんわりと温めてくれる。  足を伸ばそうとすると、柔らかい何かに触れた。  炬燵の中を覗くと、丸くなった猫が僕を一瞥して再び丸くなる。  三週間前からうちに居候中の野良猫だ。  彼女が洗濯物を干していた時に窓から入ってきたらしい。それ以来うちを気に入ったのか、外出する事なく我が家のごとく過ごしている。  彼女も炬燵の中の猫に気づいたのか、炬燵の中から取り出し、抱き上げて頬擦りする。 「しあわせだね」 彼女は小さな声で呟いて、僕を見つめた。 僕は今……。 「し、し、しあわせです」  言えた。  今までずっと言えなかった言葉。  簡単な言葉なのに、何度も喉元まででかかったのに。  彼女は僕の「しあわせです」という言葉に「よくできました」と優しい笑顔で答える。  一流企業に勤めなくたって、資格なんて無くても、柔らかな光のような彼女の笑顔がそこにあれば僕はしあわせなのだ。
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