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青屋から逃亡してやって来たのは、あの日、夢の世界を見せてくれた浜辺の岩場。
岩場はそのまま海に突き出している所もあり、靴を濡らす気はなかったが、清和はすぐにでも海水へと足をつけられる場所に腰を下ろした。
「クロッキー帳、持ってくれば良かった」
チリン、チリリン。リリン、リン。
ポツリと呟いた声に、澄んだ音が重なる。
「あるよ? クロッキー帳」
リリン・チリリン。
「え?」
驚いて振り返ると、サラリと初夏の風そのままに微笑む長身の男が居た。
涼やかな音は、男の革製ネックレスに付いている、小さなベルの音だった。
「トナカイ」
頭に浮かんだ聖人の乗るソリを引く動物が、思わず口を突いて出た。
「あははは! 爺さんでも良いから、人間にして欲しいなぁ」
派手に笑った後、そんな可笑しな要求をしてくる男の顔はなんとなく見覚えがある気がしたが、思い出せない。霞掛かった映像の、更に解析が必要な、そんな感じだ。
清和自身も長身だが、そんな自分よりも、もう少し高い。首周りを広く切りっ放しにした様なカットソーに、少し細身のジーンズ。サラサラの海風になびく、緩いくせ毛の髪。
確実にこの漁師町の人間じゃない。
「君も絵、描く人?」
海面に近い岩場に居た男は、そう言いながら、自分のクロッキー帳を手渡してくれる。
「一応、そうですけど。あぁ、あの、そこ苔とかでヌルついてるから、危な……」
「えっ? わぁ!」
言ってるそばから、派手な音と飛沫をあげて、男は海に落ちた。
すでに清和の手に渡っていた、クロッキー帳は無事だったが、どうやら男が無事ではなさそうだ。
「落ち着いて、そこそんなに深くないでしょ。少しあっちに泳げたら、足着くよ」
なんて清和の声は、踠く男には聞こえていない。
「うっぷっっぷぁっ」
必死で浮こうとする度に、力んで沈んでいく。見兼ねた清和が靴と羽織ったパーカーだけを脱ぎ捨て、海に入った。
「落ち着けっ! 俺まで溺れるっ」
必死にしがみ付こうとする男に、一喝すると、怒鳴られた男はキョトンと一瞬止まり、一瞬沈む。
清和は慌てて男の顎に左腕を掛け、顔だけを海面から上げた。
「そうやって、力抜いてて」
そのまま足の着く所まで、数メートル男を小脇に抱えて泳いぐ。
「ほら、足着くだろ?」
確実に年上だと思うが、一度放ったタメ口は戻せない。
波打ち際まで手を繋いで引っ張ってくると、安堵に長い息を吐き出した男は、緊張感なく微笑んだ。
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