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 大学の朝はそれほど早くはないため、少しばかり()の温もりがある。夕方には家に帰り着いている予定だったが、太陽が隠れてからの帰路(きろ)を想定してなかったヨシは防寒に乏しかった。 「うわっ、寒っ」  会計を終え、出入口から吹き込む風を浴びたヨシは思い出したようにトートバッグからマフラーを取り出した。革製のバッグは黒を基調としており、マフラーはグレー系のリバーシブルタイプ。幼顔(おさながお)のヨシがそのマフラーを巻くと、落ち着いた大人の雰囲気と背伸びする青年の色気を感じさせるようであった。一方のマサはフードを被り、童心の素直な対処で寒さを体感する身体を守る。  ズボンのポケットに指先を隠すヨシと、パーカーに手を突っ込むマサ。意図せずして互いに寄り添うように並び歩く。事の後だからか、別れを惜しむのか、それともただただ寒いだけなのか、マサは相変わらず口を開かない。 「寒いなぁ・・」 「・・」 「明日は何か予定あるの?」  首を振るマサ。 「あーあ、お別れの時間が近づいてきたなぁ。寂しいなぁ」 「・・」 「・・帰ったらまたお兄ちゃんと?」 「・・わかんない」  ようやく口を開いたマサ。顔は若干下を向き、数メートル先の道を見ていた。  駅への道は人が行き交う。冬休みということもあってか若い人もそこそこにいた。並ぶ店から漏れ出る光が道を横から照らす。空は白く、目を()らせば星が見えなくもなかった。明るい声が所々に聞こえる。肩をすくめて歩く姿も見える。肌の感覚が奪われるこの空気は、目に映るもの全てに温もりがないような錯覚に(おちい)る。それは時に自分だけが異次元を生きているようにすら感じさせる。  映像と音が洪水のようにマサの脳内を駆け巡る。それが何なのか認識できない時もあるようだが、残酷(ざんこく)非道(ひどう)と呼ぶべきものも少なからず含まれていた。時に広告やポスターが目に映る。そこに書かれた言葉は記号でしかなく、意味を認識できても実感できない。自分自身ですら単なる物質の塊であるようにしか感じず、全てが分解されて粉々になり、無の中にただ有が存在しているだけの感覚。宇宙と同化する自分。それを無意識に体感できたとき、幸せを感じる一方で消えてしまいたいという複雑に混成(こんせい)された感情がマサを(おお)った。  一度その感覚に陥るとしばらく、それは時に眠りに就くその瞬間まで解放させてくれない。その感覚のまま家に帰り着く。自転車をいつもの場所にとめるのだが、その横にはカズの自転車が既にとまっていた。玄関を開けると小さく音楽が聞こえているのがわかった。それは風呂場の方。 「ただいまぁ。あー、暖かーい、疲れたぁ、お腹すいたぁ」 「お帰りなさい。寒かったでしょ。  疲れたって顔してるわね。ご飯食べようか」  母親は嬉しそうな笑顔で言った。 「今日は予定より結構進んだかな。今年中には宿題終わりそう」  荷物をソファーに置くと、キッチンで手を洗う。自転車に乗っているときに風が奪った指先の感覚は、温水がじわりじわりと生き返らせていく。 「あー、気持ちいぃ」 「風が冷たかったでしょ。すぐに食べられるようにだいたいは温めておいたから、カズを呼んできてもらっていい?あと、ミチルにも声かけといて」 「みんな食べてないの?」 「みんなさっき帰ってきたばっかりだから。もうすぐあんたが帰ってくるなら待ってるって、ミチルはお風呂でカズはお風呂待ちで2階」 「はーい」  母親との会話を繰り返す中でマサは少しずつ自分に戻っていく。一方で、無意識の嫌悪感もまた瞬間的に顔を出す。  脱衣場のドアの前で声をかける。だが、中からは返事が聞こえない。音楽が声の邪魔をしていた。ドアを開け、風呂場の扉に向かって声をかけると返事が返ってきた。  それから階段下からカズを呼ぶ。だが返事はない。耳を澄ませばテレビの音が聞こえる。数段階段を上がり、再度声をかけると人が動く震動が(かす)かに音を出す。それからドアが開く音が聞こえた。マサはカズの姿を見届けることなくリビングに戻る。 「ありがとう」 「うん、ドアの音が聞こえたからたぶんもう降りて来てる。  これ持っていくね」 「うん、ありがとう」  母親は当然のようにマサに声をかけ、マサも当然のように配食を手伝った。カズは食卓に着く。ミチルも風呂から上がり、団欒(だんらん)の時を過ごす。  無知か未知か。同じ時を過ごさぬ見えない時空での出来事は既に異世界。瞬間的な共有の中で同じ世界を生きているような感覚を得られる。他者の感覚を体感できずも、他者の五感で得られる世界に違和感を与えないような自分を、再度脳で作り出して実演する。  舌は母の手料理の味を認識する。日常だからこそ罪悪感がマサを襲う。胸を苦しめる感情に他者はおそらく気づかない。  テレビがダイニングからも見える。字幕は小さくてよくは見えない。自分自身が仮想であればと無意識に想像しながら、自分自身を見えない媒体(ばいたい)に映し出していた。
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